渡辺 紀子(わたなべのりこ)
人口1600人の町に6人。かたや人口55000人の市に55人。前者は奥会津の金山町、後者は白河市の保護司の人数となっている。のどかな暮らしが残る金山町で、なぜこんなに多くの保護司が必要なのか?
この答えは、今から70年以上前の事情にあった。
朝鮮戦争(昭和25年)からの戦時特需により、日本では電力の重要性が高まってきていた。そのエネルギー供給地として白羽の矢が立ったのが、只見川筋の地域だった。そして金山町にも、いくつかの水力発電所が造られる。その突貫工事での過酷な作業を担ったのは、電力・建設会社の社員の他に膨大な数の受刑者たちだった。むしろ、その存在が無ければ成し遂げられない事業だったともいえる。
P隊(Pはプリズンの略)と呼ばれる受刑者は、宮城刑務所に収監された人たちだった。終戦後の世相は甚だ荒れ犯罪者も増え、昭和24年頃から全国的に刑務所の収容者が過剰拘禁という事態に陥っていた。宮城刑務所も超満員の状態であったという。拘禁緩和と作業収入との関係から構外作業が積極的に運営されるようになったのだ。奥深い土地は道路もほぼ1本道。ましてや冬は豪雪地帯となれば、受刑者が万が一逃亡した際も捕まえやすい。色んな観点から只見川筋は構外作業として相応しい立地、とみなされたようだ。
戦後の国力回復を念願する電源開発の国策に沿って、昭和26年12月、片門作業所(会津坂下町)を開設。以来、柳津(柳津町)、宮下(三島町)上田(金山町)、本名(金山町)と上流に向かって作業所を開設し、田子倉作業所(只見町)を最後として昭和33年11月30日、約7年に渡るこの国策大事業に参加し、我が国行刑作業史上不滅の功績を残したのだった。P隊を受け入れるとなった時から、町はそれまでにない数の保護司を置くことになったという。当初より少し減ったものの、その名残が現在の数字だった。
当時、地元はかなりの恐怖と不安に包まれていた。「おっかねぇ人たちが来んだど!」「気つけんなんねぇぞ」と、そんな言葉があちこちで囁かれていたようだ。しかし工事が始まってからの受刑者の働きぶりは、目覚ましいものだった。開発に協力したいと地元有志で立ち上げた“奥会津同志会”。その理事長だった横田宗久さんの話や当時の様子が、1冊の冊子に詳しく書き留められている。(※1)
「理事会の席上、だれ言うとなく現場で働く受刑者のことにふれたところ、木枯らしと風雪にいどみ建設に従事している受刑者をみると罪人などとは少しも考えられない、あれこそ神の姿だろうと一同感激してなにか我々にできることをしてやりたいとなったが、酒とか煙草は禁制品だし正月用の餅にしようということになった」。
この話を聞いた人が我々もと少しずつの米や小豆を提供、中には相当の耕地を工事の犠牲にする人までも米を持ちより、たちまち米2斗小豆5升が集まった。
受け入れ当初の先入観からは思いもよらないような反応が起きていた。本気になって働く姿が、地元の人々の心を動かしていたのだった。ちなみに、送られてきた受刑者の刑期は3年6カ月位の人が一番多く、平均年齢は30歳位、性犯罪は除いた危険性の極めて少ない人という選定だったらしい。戦後の混乱の中では生きる為に犯してしまう罪、という側面が往々にしてあったことは容易に想像出来る。多くはそうした人たちだったのかもしれない。現地での反則がないので比較的早く仮釈放になっていたようだ。脱走者もほぼなく、地域住民とのトラブルも起きなかったという。

過酷な現場での働きぶりを見ていた建設会社の人に見込まれ、刑期を終えた後に就職した例もあったという。また、この構外作業所では職員も受刑者も粗末なバラックで寝食を共にし、また同じように休憩時間も共に過ごしていた。そうしたことから、職員が親身になって相談を受けたり、また自分の人生の考え方を聞かせたりという場面も日常的にあったという。出所後に、職員の方に手紙が届くこともあった。
「一生懸命働いていますのでご安心ください。お陰様で社会人らしい生活が出来るようになりました。ついてはこの暮れには結婚することになりましたのでお知らせ申し上げます」
「俺があのダムを造ったのだと、子供達に自慢している」
死ぬ気で打ち込んだ先に、こんな暮らしを得た受刑者たち。神も仏もちゃんと見てくれていたのだ。こうした事例は少なからずあったという。改心の先に生きがいのある人生を送る姿があったこと、只見川電源開発の記憶の片隅に記しておきたいと思う。
※1「奥会津電源開発の記録」柴修也 宮城刑務所篤志面接委員協議会2011年