目黒 章三郎(めぐろしょうざぶろう)
【山ノ内七騎党宗家・横田山ノ内家(その2)】
米沢を居城とする伊達政宗は、仙道(中通り)を勢力下にし、ついに天正17年(1589)6月、会津に侵攻し磐梯山麓の摺上原で芦名氏との一大決戦となった。戦闘はほぼ2時間で伊達軍の大勝となり、数日後、政宗は黒川(若松)に入った。芦名の敗因は、最後の当主となった義広は常陸佐竹家からの養子であるが、一族の猪苗代氏の伊達への内応や、臣下が佐竹衆と芦名譜代とに分かれ、その対立による家中の分裂によるものである。
山ノ内七騎党といわれる一門は、この戦いにはそれぞれの立場で臨んだ。(~それはこの連載で後述していく~この回は、横田山ノ内氏について述べる。)ということは、山ノ内一門は七騎党といわれても横田山ノ内氏に絶対的な統率力はなく、宗家といっても山ノ内諸族連合の代表という風であったといえる。
横田山ノ内家当主・氏勝は、芦名家とは距離を置いた「同盟関係」にあったといえる。前述した仙道での伊達との攻防でも、加勢を要請されても本人は出陣せず、一族の沼沢氏(もっとも沼沢氏は、既に芦名の有力武将となっていたが)と家臣350余騎を遣わす程度だった。摺上原の戦いに際しても当初から自ら参陣せず、塔寺(会津坂下町)まで進軍してきたところ摺上原の戦いの敗戦の報を聞き横田に引き返している。
黒川に入った政宗は、会津の諸将に黒川出仕を下知した。山ノ内一門は和戦二つの意見に分かれたが、結局は出仕した。ところが、政宗も形の上では礼遇したが、拝謁の後、帰郷を許されず黒川に留め置かれることなった。そこで氏勝は一計を案じ、老母の病が重いのでとの理由をつけ三日の暇を乞い横田に帰った。しかし、黒川には戻らなかった。人質として置いた猶子(兄弟や親戚の子を自分の子としたもの)二人には自身が帰る前に企みを話し、隙を見て逃げ帰れと伝えた。この策略を、同じく黒川に出仕していた一門集には知らせておらず、それが主な一族を敵に回すこととなった。その一族とは、川口山ノ内氏や野尻氏、布沢氏等で、横田離反となる。川口山之内家は、氏勝からすると祖父の俊清が「横田くずれ」敗戦の責任をとって嫡男舜通(きよみち)に家督を譲り、天文13年(1544)末子の俊甫(としもと)を連れ隠居所として川口に玉縄城を築いた。以前より川口山之内家を筆頭に、ゆくゆくは宗家横田にとって代わる野心があったものと思われる。
こうして伊達勢は、山ノ内領に攻め入ることとなり、その道先案内と先陣を川口、野尻、布沢が務めることとなり同族間で争うこととなった。
侵入ルートは二つで、一つは高田尾岐から博士峠を越え野尻(昭和村)に抜け、吉尾峠を越えて布沢(只見町)に入り、ここから松坂峠を越えて横田中丸城の背後から攻めるというもの。もう一つは、柳津から只見川を遡り横田を目指すルート。しかしここは、入り口から滝谷岩谷城や桧原丸山城などがあり突破するのは困難を極めると考え、伊達勢は柳津から只見川を渡り左岸側から横田を目指した。
後者のルートの最初の合戦場は、桧原と対岸の小和瀬である。ここでは、滝谷・桧原両勢を中心に崖の上から弓矢を放ち退却させ、麻生で追撃戦を展開している。

後日、伊達勢はここを突破して遡上し高清水から宮下へ渡河。(※西方山ノ内氏だが、前年の天正6年(1578)、”大槻崩れ“といわれる芦名氏内の内紛に巻き込まれ当主が自決しており、伊達勢への抵抗力となり得なかった)
宮下から沼沢に抜ける左靭(ひだりうつぼ)は急峻な崖の細通。(靭は矢を入れる筒で、普通は右肩に掛けるが下端が崖に当たり歩行困難になるので、左肩に掛け直さなくてはならなかったのが地名の由来)ここでの防御は固く、また対岸の天狗岩では滝原、早戸の勢力が待ち構えていた。結局、伊達勢は諦めて宮下から大谷川を遡上し美女峠を越え野尻に向かい、尾岐からの軍勢と合流した。
野尻では、兵を二手に分けた。一隊は、布沢から横田に向かう主力部隊。もう一隊は、野尻川を下り川口に向かう別動隊で、横田中丸城を挟み撃ちにする作戦である。そして、主力部隊は布沢に布陣したが、伊達勢に加担した田島の長沼氏(盛秀)の進言で、先ず伊南川沿いの山ノ内氏の固城(かためじょう)である梁取城と和泉田城を攻め落とした。
別動隊は、川口山之内の左衛門佐が先導した。川口から西谷を過ぎ切払峠に差し掛かった時、峠の頂上で待ち構えていた山ノ内勢に攻撃され、死傷者が続出し退却を余儀なくされた。山ノ内勢は、伊達勢がこのルートを諦め再び野尻に向かうと勘違いして兵を引き払ったところ、翌朝、伊達勢は再び侵攻し切払峠を越え橋立村まで進軍した。慌てて退却した山ノ内勢は、横田まで2Kmほどの大布蟹、小布蟹という難所で防御に当たった。ここでようやく伊達勢は、中丸城を目前にして只見川筋からの攻撃を諦め、野尻から布沢へと撤退した。

山ノ内氏勝は、布沢城に集結した伊達勢を攻撃しようと出陣した。布沢の手前に松坂峠という横田側からすると急峻な崖を登る峠がある。ここでの戦いは、氏勝自身が「もはやこれまで」と自決しようとしたほどの大敗北であった。ここではようやく退却し、そして山ノ内勢は横田中丸城からも撤退し、只見川を渡り固城である大塩の中山城と只見の水窪城に立て籠もった。

これは、越後の上杉景勝の援軍を待つ戦略である。
(次回は、この攻防の結末と秀吉の奥州仕置きについて。乞うご期待。)