【エッセイ】狐の参道 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【エッセイ】狐の参道 NEW

2026.06.01

菊地 悦子(きくちえつこ)

 5月5日のこどもの日、東京から遊びに来ていた娘家族と彼らが飼っている犬一匹と、三島町の鬼子母神祭に出かけることにした。鬼子母神堂は西方地区の岩倉山の山頂にあり、西隆寺の裏手にある参道を登っていくらしい。
 西隆寺にはお昼ごろ到着した。祭の日に出される評判のカレーを探すも、午前中で売り切れてしまったとのこと。気を取り直し、うどんを人数分注文し、空気中にそこはかと漂うスパイシーな残り香をくんくんしながら、ちゅるちゅる頂く。来年また来るときは、もっと早くに家を出よう。

 境内には地元のこどもたちが運営する駄菓子屋もあり、小学5年の兄、小3妹のふたりの孫たちは、わたあめの列に並んでいた。一回10円で割りばしをもらい、そこに自分で好きなだけザラメ糸を巻き付けていいのだという。
 娘婿は御朱印集めが趣味で、その日も御朱印帳持参で張り切っていたので、お寺に住む由美子さんにお願いをして、住職様に取り次いでいただく。
 娘はその間、連れてきた犬の見張り番である。犬は銀太という。一昨年ほど前になるだろうか。兄弟で捨てられていたうちの一匹を娘家族が引き取った。丸っこい子犬期を過ぎると、四肢が急激に伸び、想像以上に大きくなった。雑種感の自然交配がくり返されたのだろうか、犬という生き物の原点に還ったような姿をしている。耳をピンと立て、ふさふさの尻尾をゆるりと巻いて、「吾輩は犬」然としているところなど、とても潔い。頭は良さそうだが、人の都合には合わせない。そんな犬だから、娘は2本つけたリードを短く持って、他人の迷惑にならないように細心の注意を払っているようだった。

 境内で小一時間も過ごしただろうか。やがてお神楽が始まった。笛と太鼓のお囃子に合わせて獅子が舞う。すると銀太と小3孫に異変が起きた。銀太は震えながら娘の両足の間に潜り込み、わたあめを舐めていた孫娘は獅子を見るなり、これまた母親の元へすっ飛んでいった。そういえば彼女は、保育園時代から獅子舞をとても怖がっていたのだった。正月明けかお彼岸に、お獅子が保育園を訪問したらしい。「明日、獅子舞が来たらどうしよう」と、前日からさめざめと泣き、保育園にはもう行かないと言い張った。
 銀太と孫がそんな様子なので、5人と1匹、早々に境内を離れ、岩倉山を目指すことにした。寺の裏に参道があり、みんな登っているから行けば分かるというが、そのみんなはお神楽見物中なのか、わたしたち以外には誰もいない。特に道案内もなかったが、とりあえず裏に続く道は一本のようだ。銀太を先頭に、リードを持つ娘が続き、小3孫、娘婿、小5孫、しんがりはわたし。前日の雨でたっぷりと水分を吸った草や土が、陽射しを浴びて匂い立っていた。笑い転げるこどもたちのような陽気な若葉が、いっせいに跳ねている。いくらもいかないうちにお囃子の音は消えていた。

 表参道と呼ぶにはいささかハードな場所を、わたしたちは何度も通った。山肌に沿って巻き上がる道は細く、両足の幅ほどしかなく、おまけに崖下に向かって傾斜している。崖側には樹木も生えているから、万が一にでも真っ逆さまに落ちることはないだろうけれど足がすくむ。四つん這いになって草の根などを頼りに登るわたしを、先に行く孫が心配そうにたびたび振り返っている。
 気がかりなのは先頭の銀太と娘だ。山道などほとんど歩いたこともない娘である。この道をどうやって乗り切るのだろう。何度か声をかけるが、彼らは大分先に行っているようで声が届かない。後に娘は、「銀が引っ張ってくれるから登れた。ひとりだったら絶対無理だった」といった。危ない場所では娘が無事に通るのを待ち、時々足を止めては、後ろからみながついて来るかを確認しているようで、いつもの銀太とはまるで違う、犬が変わったような、頼りになる立派な振舞いだったとも付け加えた。

 途中には休憩できるような開けた場所もない。結局50分ほど登り続け、お堂が見えたときには心底ほっとした。山頂で撮った記念写真には13時51分とある。
 さて、帰りは普通の道でというわたしたちに、世話役の方たちが慌てて待ったをかける。広い道はあるが、車を置いた西隆寺までは2時間もかかる。それはあまりに無茶な話。来た道を降りた方がいいというのだ。いやいや、あの道は登りだから何とか来れたが、下るなんてとんでもない、それこそ無茶だとわたしたちは固辞し、車道に出る道筋を教えてもらって下山した。
 帰りは始終快適で、巨大な朴の花やピンクに咲き誇るウツギや紫に霞む山藤の花に歓声を上げながら、達成感も手伝ってか、今日はほんとにいい日だった、来てよかった、最高のこどもの日だったと口々に喜び合ったのだった。里の方からは、またお囃子の音が高く低く響いていた。

 後日、このサイトで昭和村の舟木志子さんらが、同じ日、同じ山に登ったことを知った(5月15日 山行記⑤)。舟木さんは「登山道はよく整備されていて歩きやすい」「小さな子どもたちも親に手を引かれて…」と書いている。絶句した。わたしたちは、なんてへなちょこなんだろう。他の人々にとって、あれは整備された歩きやすい登山道に過ぎないのだ。眩暈がするほど恥ずかしくなった。にしてもだ、若干疑問も残る。いや、大いに残る。
 さらに後日のことだ。その話をほぼ笑い話として由美子さんに語ると、由美子さんの顔色が変わった。「そんな道なんてあるはずがない。まず誰にも会わなかったなんてあり得ない」と。そう、わたしたちは登山中、ひとっこひとり誰にも会ってはいない。登る人はもちろんのこと、降りる人とすれ違うこともなかった。寺の境内で参拝客を見守っていた由美子さんは、2時3時頃まで大勢の人たちが降りて来ているのを確認しているのだから、その人たちと“必ず”道ですれ違っているはずだと断言する。

 それでは一体、わたしたちはどの道を歩いたのだろう。あの辺りの山を良く知る人たちは「他に道なんてねえぞ」「岩倉山の神様に修行させられたか、狐に化かされたんだべな」と口を揃える。
 ひとむかし前まで、会津のいたるところで人を化かしまくっていた狐は、どうやらまだその辺で息をひそめているらしい。狐はお神楽を嫌うという。お神楽に怯えた銀太と孫娘が狐を呼び、狐は自分によく似た銀太を化かし、わたしたちを狐の参道に案内した。あの冒険の後のわたしたちの多幸感、全能感は、考えてみると狐に化かされた人間たちへのご褒美だったようにも思えてくる。

 狐に化かされた一家がその後どうなったか。数日後、運動会のかけっこで、ふたりの孫は共に初めての一等賞を取った。銀太は元のわがままわんこに戻り、娘は相変わらず手を焼いているようだ。ただ、彼女はいう。
「でもね、あの時の頼りになる銀太を思い出すと、なんだか前とは違って見えるんだよね」
 わたしはというと、狐に化かされたかもしれないことが嬉しくてしかたない。「世の中には二種類の人間がいる。狐に化かされない幸福な人たちと、狐に化かされる幸福な人たちだ」そう叫んで歩き回りたいほどなのだ。