痛い結婚式 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津に生きる

痛い結婚式

2024.05.01

井口 恵(いぐちめぐみ)

新井田惠子さん(昭和27年生 柳津町)

一升枡に盛られた炒った豆を、集まって来たご近所さんが花嫁に向かって勢いよく投げる。
「バーーーッてすごい音して投げられたの。ちょっとは聞いてたけど、その勢いにはびっくりしたぁ。痛い!いたい!って、隣の仲人さんが扇子で顔を隠してくれたりして」
痛い、居たい。一生(升)この家でマメ(豆)で居たいという願いを込めたお祝いだ。
そのため、痛ければ痛いほど盛大な歓迎と祝福が込められている。
柳津町小巻地区で受け継がれる「豆ぶっつけ」の結婚式のお話を聞いた。

保育士をしていた惠子さんに、親戚や職場の父兄がお見合い話をたくさん持ってきた時期があったが、当時は結婚にはあまり興味がなかったという。
「だけど、そろそろ結婚かなぁって思った頃にちょうど来た紹介があって、あまり迷わずぱっと決めちゃった感じ。時期、なんじゃぁないかなぁ」
今では3人のお孫さんに囲まれる7人家族で、大きな家での賑やかな暮らしだ。
お話を聞いている途中、9歳のお孫さんが顔を出してくれたので、一緒に結婚式のお写真を見せていただいた。
「え~これがじぃじとばぁばぁ?うーーーん…??」
はじめて見る写真のようで、なんだか少し恥ずかしそうにおじいちゃんとおばあちゃんの昔を見つめていた。
そういう君は、写真にあるおじいちゃんの子供の頃の顔に、どこか似ている。

昭和53年11月11日、会津美里町新鶴から朝早く着付けを済ませ、華やかな花嫁衣装に身を包んだ惠子さんは、柳津町小巻の嫁ぎ先から数軒離れた「中宿」に入った。
中宿から仲人親母介添えのもと、仲人親父が提灯を持って先導し、嫁ぎ先の家まで花嫁行列となって歩いていく。
「緊張とかもあまりなかったかな。私あまり気にしないのよ」

嫁ぎ先に到着すると、親戚の長老が両手に持った男蝶女蝶(銚子)を高く持ち上げ、新郎新婦の永遠の誓いとなる「∞」の結びを描いて三々九度の盃を執り行う。
「お酒を持って蝶々のような舞いをしながら、お酒を注いでいくのよね」
二人の縁が解けることのないよう、堅く契りを結ぶ儀式だ。
粛々と高砂が謡われる中、その空気を破って勢いよく家の外から豆が投げ込まれる。
「高砂を謡う人達は動かないで謡い続けなきゃいけないから、背中にたくさん豆を受けるから大変よ。私の親戚なんて何も知らないから、突然飛んでくる豆にびっくりしちゃって。鬘と耳の間や、着物のいたるところに豆が入って、衣装を脱いだ時、後から後からバラバラ出てくるの」

その後、今度は祝う側で豆を投げたことを、惠子さんがいたずらそうに話す。
「私もやられたから、よーしやるぞって感じで、ポケットにたーくさん豆入れて、思い切り投げ込んだわ」
小巻で生まれ育った旦那さんも子供の頃から何度も豆ぶっつけに参加し、現在では結びの式(結婚式)の文言や進行、謡を把握する限られた存在だ。

惠子さんは2016年、自分の中宿となった家の長男の結婚式の際、花婿の介添え役を引き受けた。
花婿の介添えは、「とりあげ婆」と呼ばれる、誕生時にお産を世話した女性が務めることとなっている。(実際花婿は病院で生まれたため、惠子さんはとりあげ婆役)
「次に結婚するような歳の人が地区に少なくなってきたのよね。今度はいつになるんだろう…。高砂謡う人も、結びをできる人も、いなくなっちゃうわよね」
痛い豆に迎えられて嫁いできた惠子さんが、マメに育んできた家族がまた、思い切り祝福の豆を投げる日がありますよう。