『蘇る風光~東北・会津 竹島善一写真展』 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津に生きる

『蘇る風光~東北・会津 竹島善一写真展』 NEW

2024.04.22

2022年に「三島町交流センター山びこギャラリー」で開催された『蘇る風光~東北・会津 竹島善一写真展』。
東京で鰻の蒲焼屋を営む傍ら、半世紀にわたり奥会津各地に足しげく通い、シャッターを切ってきた竹島さんの写真は、いまや失われた暮らしや風景を伝える貴重な記録だ。当時の人々にとっては何気ない日常に過ぎなかった瞬間に、かけがえのなさを感知し息を呑んだ竹島さんの愛と感動に触れることのできる素晴らしい写真展だった。
盛況だった初日のギャラリートーク(6月18日)での竹島さんのお話をご紹介する。

須田 雅子(すだまさこ)

① 会津との馴れ初め

この三島町を初めて訪れたのは昭和49年でした。会津西方という駅へ降りた。
東京で買い求めた五万分の一の地図。僕は五万分の一の地図ってものを東北でこれから行こうと思った所、ほとんど全部買い揃えて、頭の中で地形を読む。それから、道路や町の大きさをそこで計る。まず、「地図を読む」ってことから始めたんですよ。

地図で頭の中に入れた通りに、西方の駅から桜並木に従って村へ入って行った。カメラを一台さりげなく持って、村の中の通りを行ったり来たりしていました。物珍しそうに歩くっていうそぶりを人様の土地で示すっていうのはとても失礼ですから、さりげなく、です。そしたら、ちょうど昼ぐらいに、お年寄りの声で、「昼だ!昼だ」って声が聞こえたんですよ。人通りがない所で、誰かに声をかけている。僕っきり聞いていないはずだと思ったら、おばあさんが私の顔を見ながら、「飯食えや。昼だ。飯食えや」って言ってくれた。

「私のことですか?」と驚いて、そのおばあさんの家に入っていったら、なんと!もう昼飯が出来ているんです。トマトを使った、あれはスパゲッティですね。ナポリタンて言うんですかね。僕に言わせると「西洋うどん」。それと牛乳が置いてある。西洋料理なんですよね。

この山の中で、まだまだ茅葺きの家が結構多かった、昔の宿場町の雰囲気の西方のメインストリートに、そこで西洋料理!
我が家では滅多に、というか西洋料理なんか食べなかった。我が家は保守的な家だから、もう地のもの、「江戸前」って言葉ありますけれど、江戸前のものっきり食わなかったわけで、ハイカラなスパゲッティなんてものは出ることはなかった。

僕はまずねえ、生まれて初めてスパゲッティを食べて、牛乳っていうものを、生まれて初めてその時飲んだの。この牛乳も何とも言えない味がしたわけ。「これ、うまいか?」って言うから、「んんんん」っと口を濁していたら、「これ、ヤギの乳だ」って。そういえばヤギがいた。

僕はねえ、目の前の、生まれて初めてっていう食べ物に驚くと同時に一番驚いたのは、人っ子一人いないと思っていた町の中で僕を見ていた人がいたんですよね。しかも!昼飯が近づいたら、食堂なんかないんだから、密かにスパゲッティを茹でていたんだねえ。いやあ、目の前に出された料理と同時にね、その「接待」だね。見知らぬ人に対して、昼飯を振る舞うってことをね、密かにやっていたそのおばあさんに、もう痺れましたよ。あぁ、これが会津なんだな。いや、これが旅なんだ。本当の旅ってのは、こういうもんなんだって、つくづく思った。

五万分の一の地図と多少の旅の経験から、「ここには何かある!」そういうふうに思った。これは今にして思うけど「当たり」だった。この西方だけ、三島町だけじゃなくて、会津どこでもそう。

鰻屋の道楽

実は、元々、僕はカメラっていうものを手にしたわけじゃなかったし、どちらかと言えば、絵描きになりたいと思っていたくらいで、絵を描いていた。ところが、私の職業は鰻の蒲焼屋なんですよね。父親なんかから、「道楽もほどほどにしろ」ってご法度が出て、絵は断念した。

でも、そんなに繁盛する商売じゃないから、一日中仕事があるわけじゃない。「商い(あきない)」は「飽きない」とはよく言ったもんで、鰻屋なんていう商売は蕎麦屋さんみたいにしょっちゅう客が出入りするわけじゃないから、何もしない時間の方が多い。それで私は本を読む。それから音楽を聴く。そういう道楽を続けて、絵を忘れようとしてた。結構な道楽だったと思いますよ。絵の代わりに読書三昧。何でもいい。読める本を読む。決して高尚な本を読んだわけじゃない。何しろ本なんてものは全然ない時代に、小学校、中学校卒業した。あの戦争のさなか、新聞紙一枚にとりあえずの教科が刷られた教科紙、それが教科書だったんです。だから、活字になっていれば何でもいい。そういう読書だった。

それから音楽。多感な時期に初めて西洋音楽を聴いて、とてつもなく痺れた。読書と音楽で結構な趣味を数年間続けているうちに何か物足りない。つまり、読書も音楽を聴くのも、そこに創造がないわけですよ。音楽も自分で演奏するわけじゃないから、何かを創造するってことがない。

そのうちに子どもが生まれた。子どもが生まれると子どものかわいい姿を撮りたいって誰でも思う。有り無しの小遣いで、中古(ちゅうぶる)の安いレンズ、シャッター付きのカメラを買ってきて、子どもの写真を撮り始めた。多少絵心もあったりしたから、まったく幼稚なカメラだったけれども、それなりの写真が写せるようになった。

そのうちに、もう少し高級なカメラで、「かわいい」だけじゃない子どもの写真を撮りたいって。何しろ、商売している以上、店を空けるわけにいかないから、家の中で撮れる写真って言ったら、家族、子どもっきりいない。それで少し高級なカメラを買おうと、中古でやっとこさっとこ、キャノンの古いカメラを買って子どもを写し始めた。最初のうちは、写してれば我が子だからかわいい。そのうち、もう少し光の具合を考え、我が子の写真じゃなくて「子どもの写真」っていうものを撮ってみたい、そういうふうに思い始めた。つまりね、父親が撮る写真じゃなくて、写真家の撮る写真、そういったものにひとりでに移行してったんだな。当時は私みたいに考えた人たちが大勢いたんだと思います。

朝鮮戦争でアメリカの有名なカメラマンがニコンのカメラを使ってる。あの弾丸の雨の中で、塹壕の中に飛び込んでも壊れない。泥だらけになっても洗えばちゃんとシャッターが落ちるっていう。ニッコールのレンズがドイツのライカのカメラと遜色ない写り方をするっていうんで、朝鮮戦争後の特需で日本の経済が急成長したんだけど、その中でもニコンを始めとするカメラ産業っていうのが、今の自動車産業と同じように外貨獲得で急成長した。そういうさなかに、私のカメラ道楽が一緒に引きずられていったわけです。

② カメラで何を撮るか

子どもの写真を「ポートレート」の写真として進化させた。多少は風景写真も撮るようになる。景色のいい、美しい写真。何事も美しいっていうのは、一番大切なスケールっていうか基準ですから、東京じゅうの美しい景色を撮ってみた。
じゃあ、「美しい」ってのは、どういうことか。これが問題ですよね。神社仏閣、庭園、そういったものは美しく出来てる。しかし、東京ってのは、一番古いもんだって300年の歴史っきりないわけですよ。

その頃、新幹線が昭和39年に開通しましたよね。私は少し生活にゆとりもできたせいもあって、京都とか奈良へ日帰りで旅行して写真を撮るようになった。その時、東京ってのは、西の人から見たら、もう「東乞食(あずまこじき)」ってなもんでね。文化のない所。その逆にこっちから行ってみたら、もう街角のお稲荷さんの祠一つにしたって、石地蔵にしたって、名品ばっかりなんですよ。当時は、法隆寺だって唐招提寺だってどこだって、門は開けっ放しでねえ、自由に拝観していい。観光客がお寺に来る、なんて前の話だったから、いくらでも写真撮ることができたわけ。だから、奈良、京都の写真たくさん撮りました。しかし、これは長続きしなかった。すぐに飽きちゃった。あまりにも景色が良く出来すぎちゃってる。だから、自分を発揮する余地がないんですよ。被写体の方が偉すぎちゃうわけ。

東京で、近所のおばあさんがお百度踏んでいるお地蔵様をなんとかきれいに撮ってみよう。縁日の時に、お地蔵様のエプロン変わったから、これ撮ってみよう。そこにはある種の創意工夫をこらす余地があったんだけどね。奈良、京都はその余地がないくらい立派だから、もう飽きたっていうか、こっちが引き下がる以外ない。

未知の国みちのくへ

東京村っきり知らない江戸っ子の僕の目を当然のごとくに惹きつけたのは、未知の世界がある「みちのく」だ。芭蕉と同じことになった。
道の奥。つまり、奥羽とか東北っていうものが、ついこの間まで、蝦夷の人たちが住んでた所だったわけだ。本当に未知の国だった。芭蕉を惹きつけたのもそれだと思うんですよね。
芭蕉は関西の人ですから、関西の人が東京へ来て、そして、その次に旅心を誘ったのはやっぱり「みちのく」だった。

僕は最初に新潟から始めて、日本海へ出る。そして、羽越線で酒田を通って秋田まで行きますけれども、その汽車も、どこそこ行きの切符っていう旅ではなくて、東北周遊券って、あの頃、自由に乗り放題、一週間でいくらっていうような切符をとても安く、当時の国鉄が売り出していましたから、その切符を買って夜行列車にもぐりこむ。夜が白々と明ける頃、左側に日本海の海が見える。それを北上して頃合いの所で降りる。そして、夜行列車に乗っかって帰ってくる。

商人(あきんど)で、特に飲食店で週休二日制なんてことはありえませんでしたから、夜行で行って夜行で帰ってくる旅を続けた。だから、冬なんか夜行列車で帰る前に太陽は日本海へ沈んでいってしまうわけ。写真にならない。しかも、僕を一番驚かしたのは、まったく超当たり前のことなんでしょうけども、太陽が海に沈むってのを初めて見た。

表日本に住んでる人間というのは、「初日の出」っていうのを拝む。東京の人間も正月元旦に海を見に行きますよね。そして、昇ってくる太陽に向かって手を合わせる。会津の田舎でも正月に「天照皇大神」の軸なんか掛けてありましたけど、農業国である日本国民にとっては、「太陽神」っていうものは、宗教以前の信心だったわけです。その太陽が沈んでってしまうっていう所に住んでいる同胞もいるんだ。僕にとっちゃこれは、天動説だか地動説だかの「コペルニクス的転換」でしたね。結局、そこで太陽の写真撮ったわけじゃない。それ撮ったって、「これ日の出?」と、東京で見せたやつは100人中99人はそう言いますよ。だから、僕は写真には撮らないで、陽が沈んでいくのをただ呆然と眺めた。

会津にたどり着くまでの東北地方は、私をなんとなく「こちらの方面へ行ってみよう」っていう気にさせました。旅ってのは、未知の場所へ足を踏み込むのが旅だと私は思ってますから。

僕は『奥の細道』を書いた芭蕉をよく思い出すんです。芭蕉が「漂泊の思いやまず」と言って、江戸から日光街道、千住から北上して行きましたよね。あてどがないようだけども、芭蕉には確としたあてはあったわけですよ。みちのくを訪ねてみる。だけども、どこそこへ行くっていう、そういうものじゃない。歩く。歩くっていうこと以外に移動の方法がなかったわけですから、細かなスケジュールを立てようがない。芭蕉はどちらかというと太平洋側から北上して途中から鳴子温泉を越えて、日本海に出たんですけど、私はその芭蕉と逆回りに東北へ行ってみようと思った。芭蕉に逆らったわけじゃない。

③ 偶然の成果

会津の写真行脚でもそうでしたけれど、僕がこの50年間、そういうハードスケジュールを続けてきたことの一つの成果は、決してフィルムだけじゃなかった。つまり、フィルムに映らない旅の成果こそ、僕をこれだけ駆り立てたものだった。

私がそのようにして感じたことなんかは、あとから、書物なんか読んだり、偉い人の論文だとか何かに書かれたのを見ると、一行か、二、三の言葉でビシッて語っていますよね。しかし、僕は書物で語られている立派な言葉の前に、自分でそれを現場で確認したっていう、その発見が、僕の旅だった。これは、会津へ来始めて、こういう写真がたまってきた原動力の原点だと思うんですよ。自分に無いものを追う、自分の常識、自分の固定観念っていうものを確認する、追認するっていう、そういう旅ではなかった。結局ね、偶然の成果っていうかな。偶然の成果っていうものはね、期待した成果なんかよりも遥かに勝る!と思うんです。

この写真、全部、行き当たりばったりのもんですよ。お祭りの写真もある。葬式の写真もありますよ。今から思うと、当時、この西方なんかでも土葬でしたから、土に返す。もちろん、東京でもお骨にして、墓にして、土に返すために埋めるわけですけども、ここでは、亡骸をそのまんま言葉通りに土に埋める。そして村の人たちが本当にそれぞれの役割を果たして、墓地まで行列を作っていく。西方でたまたま、そうした葬儀に出会ったんですよ。

春先だったけれども、いつものようにお寺の後ろの山へ雪道を登って、西方の部落を撮ろうと上から俯瞰した。いつも人がいない部落ではあるけども、その日はまったく誰にも会わなかった。
ところが、西方の一番はずれの所へ山から下りてきたら、黒い装束を着た人が道端にずーっと並んでいた。葬式だったんです。村じゅうの人たちがここに集まっていました。私は、たまたま、そこで葬儀の写真を撮らしてもらいました。

僕は人様の葬儀にカメラを向けるってのは、本当に失礼なことだとは思ったけれど、自分としては精いっぱいの弔意を表明しながら、写真を撮らしてもらいました。その時に払子(ほっす)を持って立派な袈裟を着たご僧侶が出てきて、その人が、のちに親交を深める遠藤太禅師だったんですよ。遠藤太禅師っていう人を垣間見た最初はその時でした。あの日のことは忘れられない。

「野辺の送り」、そういう言葉は知っていた。しかし、それぞれの飾り物をつけて、役割が決まっているらしい全員が、何とも言えない弔意を表明してるってのは、もう村の雰囲気そのものだった。あの葬儀の写真を撮らしてもらった時のことは忘れられません。

撮影の姿勢方針

村の中の空気を侵さないように、自然な風のようになろうと通い続けながら、「ここで行われている日常の人々の営み、そういったものが作り出した景色、情景っていうものを、丹念に積み重ねて撮っていこう」と、しっかりした姿勢方針が決まってきた。これが決まってから、私は初めて写真を撮れるようになりました。それまでは、自分の目で、つまり、自分の心で価値観を決めたものを会津の土地の中でピックアップ、探していたんですよね。紳士的に振る舞っていたかもしれないけど、心の中では、自分にとって「おいしいもの」を探していた。

しかし、そうじゃない。今、この地域、この村を形作っている、その一つ一つの些細な出来事、人々が生きてきた証の道具、そういったものを丹念に記録しておこう。そして、何よりも私の強みは、私には写真の他に職業があって、その本業さえ怠らなければ、写真を飯の種にしなくて済む。
飯を食う以上は、それなりの技量がなくちゃ人様から銭はもらえない。しかし、プロだから立派な写真を撮ってるか。必ずしもそうではないわけ。プロっていうのは、そのことによって生計を立てている人をプロっていう。だから私のプロとしての仕事は鰻職人です。あきんどですよ。だから、写真で食う必要ないから、本業で稼いだ剰余のものを写真につぎ込めるわけ。つまり、撮り溜めていけばよい。

僕のささやかな記録精神

僕は、ただ、ただ写真を撮り集めていくことを続けた。自分で白黒の写真をプリントして、ネガをしっかりとっておけば、私が死んだあとで、(写真の良し悪しではなく)「あ、ここに写っていた事実が、50年前、60年前にここの地に存在していた!」と。それだけで意味を持ってくるに違いない。
例えば、私がある人物を撮ったとします。そうすると、その背景に部落が遠景として写ってる。もしくは鉄道線路が写ってる。そういったものが、背景のちょっとした寸景が、実は、意味を持ってくるかもしれない。

昭和52年に昭和村へ行ったとき、家の中に石油ランプがぶら下がってる家がまだ何軒かありましたよ。もちろん電灯はついてました。それはどういうことかっていうと、ついこの間まで、昭和村でこのランプは現役だったってことを物語ってるわけですよ。会津だけじゃない、昭和村だけじゃない、日本の最後の、幕末時代からの名残の最後の香りが残っていたのが、昭和50年代だったんじゃないか、と僕は思っています。そこに、僕のささやかな記録精神がなんとか間に合った。

こんなふうにして、あっちこっちまわってる時に、自分の行為に自分自身を鼓舞したのは、これだけ会津の土地に足繫く通っているのに、僕が撮ってるものを写してるカメラマンに会ったことがない。「そうだ!僕が撮らなければ、この村、この町、この集落、写真に残らない!」と思った。

④ 農の風景

このじゃがいも育ててキロいくらになるとか、今年の米の値段はどうのという商品を作るんじゃなくて、農業ってものは、やっぱり「育てる」っていう喜びがあるから作るんじゃないかと思うんですよね。

僕が宿にしてた西方のある農家では、僕があんまりそこの家の里芋を誉めるもんだから、「竹島さんの里芋の畝は、いつでも一畝ここにある」って作ってくれるようになった。
朝一番に行くと、私の里芋の葉っぱの上に水滴が転がってますよ。「いやあ、今年の俺の芋、育ちがいいね」って言うと、「いや、駄目なんだよ。葉っぱばっかり育っちゃってっから、芋はいいものはできねえ」。「なーるほどな」ってね。そんなことをしているうちに、刈り入れ前の稲穂を見て、大体の反あたり収量も当たるようになりましたよ。

僕が会津で一番撮ったものは、「農」の作り出した景色。それはすぐ分かりました。結局、何を撮ろうと、何にカメラを向けようと、その基盤を成しているのは農業なんだ。なくなっていくものから写真に撮る。写真は絵と違うから、現物がなかったら写真が撮れないわけです。

ひと頃、SLブームなんていうのがあって、僕が来始めた頃なんかはもう、夜行列車に乗ってくるとSL目当てのカメラマンてのは必ず乗ってたもんでした。その人たちはSLがなくなっちゃったら、もう会津には来ないんです。その次、SLが走っている所へ今度行くわけです。だけど僕はその時つくづく思った。「ああ、この次なくなるのはSLじゃない。この線路だ。この線路がなくなっちゃう」。私は意地が悪くてそういうふうに悲愴に見るわけじゃないけど、そういうのが見えてくるわけですよ。

なぜかって言うと、僕が初めて来た頃に人が住んでた家が空き家になってる。人が住んでいても、ついこの間まで、軒下や納屋に、鎌やら、ソラックチだとか、田植えの道具だとかね、それから何だか知らねえけど、大きな丸太だとか。「これは何だ?」と思ったら、ははあ!これで田をならすのか、あれに紐付けて。田んぼの中、引っ張ったり。これはすごいな。弥生時代以来の農機具じゃないか。
そういう農業の仕方。そういったものが残っていた。この次なくなるのはSLじゃない。下手すりゃ、農業かもしれない。

お金以外のものは何でもある

しばらく私の都合で会津へ来なかったんだけれども、昨日久しぶりに会津に来て、僕がつくづく感じたのはね。「ここにはお金以外のものは何でもある」と思いましたよ。
人知れず、廃屋の前にね、あるじがいなくても今年もきれいな花が咲いてるわけですよ。丹精して眺めたであろう、菖蒲だとか牡丹が見事な花つけて。

今朝も起きて、食事しようと思ったら、宿の女将さんが「テレビつけましょうか」って言うから、「いや、テレビつけないでくれ」と。
何の音もしない。音がないっていうことはどんなに素晴らしいことか。音がないからこそ、音楽が発生するわけでね。音がないってことの贅沢。僕はこれからね、この地方で何が豊かなのかっていう価値観ってものを、個々が見定めていくっていう時代に入った。それ以外ないと思うんですよね。

千人の村を豊かに生きる

先だって奥会津書房で発刊した『別冊会津学vol.2』っていう本、分厚い本でしたけれども、最初に巻頭言の所に赤坂さんが、少し長い講座の話をしてくれて、柳田国男という民俗学の大家から日本の民俗学が始まったって。

だけど、いっときね。赤坂さんの著述の中で、柳田国男と違った視座の民俗学を提唱したっていうような時期があったように僕は思ったんですけど。今回、柳田国男という原点に帰って、今さらながらに柳田国男って人の偉さに開眼したってのを、あの文章から僕読みとって、「赤坂さん、エライ!」。そして、僕に「エライ!」と思わせた、最後の総括した所は、この言葉が、僕すごく忘れられなかったんだけど、「千人の村を豊かに生きるために」って。それで、その長い講座を締め括った。

「これだ!」。よく言ってくれた。「千人の村を豊かに生きるために」。
そう。これ一つの禅問答の提唱ですよ。これをよく吟味してほしい。「千人の村で豊かに生きる」じゃないの。「千人の村を」なの。「千人の村で豊かに生きる」っていうのはね、東京で食い詰めちゃったし空気が悪いから、田舎へ移住しようっていうね、ある種のエゴでっきりないと思う。そうじゃない。千人の村で完結する。減っていく人口統計に、いちいち心を煩わせないで、千人で生きてく術(すべ)っていうものを、これからは考えていくべきじゃないか。その時に本当にね、お金以外は何でもあるっていうことに帰着してほしいと思うんですよ。

誰に何に期待するじゃなくて、一人一人がね、本当に強く生きる!そういう人たちが千人いる。これですよ!そういう村を目指すべきだと思う。だから、「美しい村」連盟じゃなくてね、千人がみんな、本当に教養の「もののふ」になって生き残ったらね、この町だって、奥会津のどこの村だって、生き残っていけると思う。それを他の所の人が、身勝手で独り善がりだと思ったって、それこそ草野心平じゃないけども、「ゲロゲロゲロ」ってカエル語で返事してやりゃあいいわけですよ。先輩はいるんだよ、いくらでも。

⑤ 結局は旅!

僕はこれだけ通って、まだ裏磐梯も東山温泉も飯森山も尾瀬も、一度も行ったことないんです。会津若松のお城も見たことない。会津若松ってのは、次のローカル線に乗り換えるターミナル駅。それだけのことで、会津若松で僕が食べる食事ってのは、帰りの上り「ばんだい5号」に乗る時、只見線でそれに接続するってえと、30分間、時間がある。その時に食べる駅蕎麦。それっきり会津若松の食事ってのはない。

僕は、この会津へ来る時でも、売れ残った鰻を折箱に詰めて、弁当一食持って通ってきた。食堂がなかったからじゃない。食堂で飯なんか食ってる暇がない。もったいない。その持ってきた折詰めを食べるんでも、屋根の下で食べたくない。「いいなあ!あそこの一本杉に当たってる陽の光。もう少しまわってくると、もっと良くなるんだ!」と、その一本杉と太陽の光の加減を眺めながら、草の上へどっかと座って、持ってきた弁当を食べて飢えを満たす。これがね、僕にとっちゃ無上の幸せ。

僕にとって会津へ何百回通おうと、高邁な「記録に徹しよう」とか、いろんなことを言ってるけど、結局ね、旅だったんですよ。面白いから続くわけでね。人の決心なんてものは長続きしない。商売でも何でもね、面白くなくちゃだめですね。

余技の効用

上手な風景写真の撮り方、上手なポートレートの撮り方、なんていうハウツー(How to)ものの本で、技術をいくら身につけたって、それはそのことでしか役に立たない。もっと普遍性のある「自分」っていうものを、融通のきく、普遍性のある教養っていうか、知的武装っていうもの、それを強固にしていくってことが、結局、写真でも文章を書くんでも、一番早道だって思うね。

写真だけやっていたんじゃあ、すぐ行き詰っちゃう。写真をやろうとしたら、音楽を聴いてみる、本を読んでみる。逆のこともあると思うんですよね。やろうとしていること、やっていることの他にどのくらい無駄飯食ってるかっていうことが、結局その人を決めていく。「無駄飯の効用」、「道草の効用」、これを薦めたい。「道草」っていう言葉、「人生の道草」。僕の写真も、ある意味じゃ道草ですよ。

職業ってものは大事だ。なぜかっていうと、自分がやりたいことにつぎ込めるだけの元手は、本業以外に稼ぐ方法がないんだから。だから、本業でエキスパートにならなければ、余技の仕事だってできない。だけども、やっぱりねえ、余技を支えるためには、余技のまた余技ってものもやっぱり必要だと思ってます。僕のその余技で一番手身近なのは、本を読むっていうことだと思うんですよね。意味を汲み取れればいいだけじゃない本の読み方ってものをするようになってくるわけですよ。

荷風への憧れ

その点で、最近、僕は開眼して、すっかり今惚れこんでんのは、永井荷風っていう作家がいましたよねえ。『墨東奇譚』が有名です。色街で男が女性とどんなに猥らなことしたかっていうね。それをあの人は一生やり続けた、とんでもない人だったわけ。文化勲章もらいましたけれどもね。だけども、あの人の書く文章の素晴らしさ!文章によって情景を描き出す。文章による「絵」だね。あれにはもうほとほと。

それからあの人が見る風景論。「論」なんて言ってね。あの人は僕とよっぽどよく似てる…、じゃないんだよ。あの人に僕が少し似てきた。あの人は決して名所旧跡には行かない。そして、自分は東京の一等地に住んでるくせに、東京の一番貧しい所、誰も行かない所、色街でも一番安い色街を歩くわけです。そして、江戸の真ん中流れてる隅田川じゃなくて、千葉県との間の荒川だとか江戸川のへり。それが今、ディズニーランドになっちゃってるけど、海に流れ込む、葦だらけで人が一人もいない。そういった所を歩いて、そこの所で、なんともいえない筆の描写をしてる。あてどもなく場末の終点まで行くバス。その車中で見たことを、自分の家へ帰って文章に、日記に書く。その、なんでもない文章。

荷風が只見まで、只見線に乗ったら、どういう文章を書いたろうか。僕、つくづくそれを思いますよ。そのことを思ったら、逆に、荷風はここへ来なかったに違いない。荷風にしてみたら、ここは景色が良すぎる!

だけども、私はやっぱり、「文学の力」ってものを永井荷風によって、今さらながら嫌っていうほど思い知って、今も夢中になって永井荷風の膨大な、大正6年から昭和34年の死ぬ二日前まで書いた日記『断腸亭日乗』を読み直してます。「断腸の思い」っていう、その「断腸亭」って。この言葉がいいよねえ。もう、ありあまるほどね、素晴らしい家庭に生まれて、昭和34年に一人で死んだ時に、貯金通帳に3,400万円。今だって3,400万円あったら(死ぬまでに2,000万円って政府は言ってるけど)、昭和34年の、三島町買えたんじゃないかな?それくらいの金を残してた。しかし、彼はね、毎夜のごとく浅草まで行って、安い洋食屋さんでストリップの踊り子たちに、飯をご馳走してやるわけですよ。五百円札で。

あの人は、晩年は、駅前の蕎麦屋でカツ丼きり食わなかった。僕は会津へ来て一番食ったのはカツ丼ですよ。なぜか。僕は永井荷風のファンだった。それも、ソースカツ丼を僕は注文しない。つまり、東京でカツ丼って言ったら、いわゆる煮込みカツ丼。つまり、永井荷風に憧れてた。だから、この辺ではね、僕は中野屋さんのカツ丼をね、しょっちゅう食べてたわけ。

そういうね、及びもつかないけど尊敬する人たち。文学なんてものにまったく関係ないけども、彼の「ものを見る目」っていうものに共感するわけです。だからね、永井荷風の全集っていうの、僕、二十年ぐらい前に神田の古本市で見つけてね。歩道の上に、ビニールの紐で二つにこうやって括って売ってるわけですよ。僕は、それまでは岩波の文庫本で読んでたけど、全集が20年ぐらい前で、1万円で売ってましたよ。一冊数千円していたのが、28巻で1万円なの。一冊が一杯の駅蕎麦の値段なの。本当にねぇ、そういう時代なんだ。

これからにふさわしい秤

今の世の中ね、国も村も個人も稼ぐことばっかり考えてる。違うの。稼ぐことを考えて人生を計るのは、もうやめよう。赤坂さんはそれを言ってるんだ。「もっと」っていうんじゃない。これからにふさわしい秤。財政が赤字だ。村ももう出費は削れないから、これを平衡させるために、こっちの分銅をもっと大きくしなくちゃいけない。もう国家が破綻してるわけでしょう。今、国民全体が、一人一千万円近い借財を負ってるわけでしょう?あの国債の残高見たら、量を増やすことによって天秤を均衡させるっていう考え方は、国も個人もやめて、今、手中にできるもので均衡を図る。そういう発想の転換が必要じゃないかって、僕つくづく思ってますよ。

赤坂さんの「千人の村を豊かに生きるために」これですよ!
話は終わり。