「災禍の果てに」⑩⑪ | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

館長のつぶやき

「災禍の果てに」⑩⑪

2024.05.01

赤坂 憲雄(奥会津ミュージアム館長)

「災禍の果てに」〈10〉時の試練(河北新聞2021,2,12)

 そのとき、井田川浦がたしかに、そこにあった。南相馬市小高の浦尻貝塚から、わたしは潟のある風景を見下ろしていた。大正八(1919)年から昭和の初めにかけて、干拓事業が行なわれ、縄文以来の潟湖(せきこ)は一面の田んぼに変わった。それが津波のあとに、かつての潟に戻っていたのだった。道をはさんだ江戸時代からの田んぼには、津波は届かなかったらしい。
 じつは、相馬地方の沿岸には、この井田川浦や八沢浦、新沼など、潟湖がいくつも見られた。明治三十年代からの干拓によって、松川浦以外はみな浦や潟としての歴史を終えていった。震災後には、八沢浦干拓地もかつての潟に戻った。震災からひと月あまり、眼の前には泥の海が横たわっていた。その下は田んぼだと聞いて、呆然とした。その田んぼの下にはさらに浦や潟が埋もれていた。それが一気に姿を現わしたのだった。浦に戻ったな、江戸時代に還ったのさ、そんな声にくりかえし出会った。
 井田川浦の復興ビジョン作りに、ほんの短い期間だが関わったことがある。そのとき、わたしは怖ず怖ずと、あるプロジェクトについて語ってみた。かつての潟の輪郭をなぞるように花を植えたい、その内側はお花畑にして、花き栽培を中心とした生業の場をつくる、再生可能エネルギーを地産地消のために導入する、浦尻貝塚とともに学びと観光の拠点エリアにする、といったものだ。東京電力福島第一原発からはおよそ十五キロほど。水田地帯として復旧しても、後継者は少なく、うまい米が作れるようになるまでには時間がかかる。風評被害を超えて稲作は復活できるのか。南相馬市内では、すでに花の栽培に活路を見いだそうとする人たちが現われていた。
 わたしは漠然と、潟の記憶、干拓や震災の記憶を、お花畑として見える形で大地に刻んでやりたいと考えていた。お花畑プロジェクトは、むろん夢物語のようなものだが、意外にも、批判や反発はなかった。そこにいた人たちの顏はむしろ和んでいた。でもな、防潮堤が半分出来上っているから、壊すわけには行かねえし、無理だな、という声に一瞬にしてしぼんでしまった。もう少し早かったらな、と慰めるように誰かが言った。忘れがたい光景である。
 防潮堤ありき、で推し進められて来た復興の不幸を感じざるをえない。あきらかに急がされた。それが開かれた議論を封じて、人々を思考停止と分断のなかに置き去りにした。しかし、三・一一の海岸線はけっして自明なものではない。渚はつねに揺らぎのなかにあった。そこは海だった、という言葉を幾度耳にしたことか。厳しい津波の被害を受けた場所のかたわらには決まって、そこはかつて海だった、という語りが浮遊していた。むろん、井田川浦はその一例にすぎない。
 あらためて、寺田寅彦の「天災と国防」を呼び返さずにはいられない。関東大震災のあとに、寺田は横浜から鎌倉へとフィールドワークに出かけた。丘陵のふもとにある古い村や萱葺きの家々が平気で残っているのに、田んぼのなかに生まれた新開地の新式の家々が激しく壊れていた。昔の人たちは、過去の地震や災害にまつわる経験を大切に保存しながら、「時の試練」に堪えてきた場所や建築様式を守ることに賭けたのだ、そう、寺田は書いた。
 被災地に点在する縄文の貝塚は、ほぼ無傷で残された。浦尻貝塚にも、松島湾に面した島々の貝塚にも、津波は届かなかった。南三陸町で、一人の郷土史家が高台を指差しながら、残ったのは縄文の貝塚と中世の館跡だけです、と静かに言い切ったことを思いだす。鉄道の線路も駅舎も小学校も津波に呑まれた。中世まで撤退するしかないんです。その人の呟くような声が耳の奥にこだましている。いま、その近世に造られた新開地は、高い防潮堤に守られて人の住まぬエリアになっているはずだ。
 古い村々は自然淘汰という、時の試練に堪えた場所に適者として生存している。そんな寺田寅彦のシャーマンの託宣にも似た言葉が、静かに甦る。撤退の時代のあらたなモラルが求められているのだ、と思う。

   ☆

「災禍の果てに」〈11〉永遠の始まり(河北新聞2021,3,12)

 また、聞いた。浪江町。震災から三年目の、抗いの死。すべてを失った、花が好きで、まじめで、穏やかな人の死。庖丁で選んだ死。いま、朽ち果ててゆく、イノシシやサルに荒らされた家のなかに、その人の、家族の記憶が行き場もなく浮遊している。遠く、手を合わせることしか、できない。
 死者たちの記憶。損なわれた土地の、奪われた家族の、忘れられてゆく記憶。だから、ただ忘れないために、その記憶と共にあるために。生かされてあるために。花は何度でも咲く。わたしはあらためて心に刻む、523の木札の、その人のことを。それぞれの小さな魂鎮めは終わらない。
 震災後に、「戦後は明るかった」とくりかえし聞かされた。それとは対照的に、災後は暗い、それは何に由来するのか。戦後はきっと、だれもがどん底から、民主主義という藁にすがって這い上がるしかなかったのだ。しかし、いま、人口の急激な減少、過疎化と少子高齢化のゆくえを知る者はなく、ゆるやかな撤退のシナリオが提示されることはない。ただ、思考停止へと逃げこんできた。
 東日本大震災から十年が過ぎた。二つの災害が交錯しながら、災後の風景を複雑によじれさせてきた。地震と津波は、どれほど悲惨であっても、その日が災厄の終わりにして復興の始まりである。しかし、そこに原発事故が重なったとき、その日は〈永遠の始まり〉の始まりとなった。すべてが未知の終わりなきプロセスとならざるをえない。あのとき何が起こったのか、いま何が起こりつつあり、これから何が起ころうとしているのか。もはやだれも安全とは言わない原発が、東北においても、なぜ再稼働へと突き進むのか。汚染処理水はなぜ、海洋放出されねばならないのか。人々の不安をほどく努力はどれほど行なわれているか。なぜ、だれ一人として責任を取ろうとしないのか。道義的な敗北の季節を生かされている。
 震災から何年かが過ぎて、はじめて水俣を訪ねた。汚染された河口と、美しい水源の森との対比が鮮やかだった。水俣病と有機水銀との、それゆえチッソの水俣工場との因果関係が、国家によって公に認知されたのは、「奇病」が正式に発見されてから十二年後のことであった(原田正純『水俣病』)。チッソと御用学者たちは頑なに認めなかった。檻を見た。そのなかで飼われ、水俣の海で捕れた魚を与えられつづけた猫が痙攣を起こし、水俣病の症状を示した。それから、モヤイ直しという名の和解への道がたどられ始めるまでに、さらにどれだけの歳月が費やされたことか。
 風評被害と記憶の風化が対をなして語られ、尖った声がぶつかり合う。十年を節目として、忘却は一気に進むだろう。しかし、原発事故を抱いた災後はいまだ始まったばかりだ。それは現在進行形の、透明な残酷である。モヤイ直しへと踏み出す、はるか手前でわれわれは途方に暮れている。
 原発事故がもたらした影響をむき出しにする、檻のなかの猫はいない。すべては確率の問題であり、そうであるかもしれないが、そうであることを証明することはかなわず、そうではないという推論を否定することはできない。だから、さまざまな数字は隠され、操作され、現実をあいまいに無化するために総動員されてきた。
 小松理虔さんの『ただ、そこにいる人たち』という著書は、とても武骨に、かぎりなく繊細に「福島」と「障害」を繋いでみせて、秀逸である。小松さんはいう、福島の人々は原発事故によって、土地や文化や暮らしを損なわれ、根こそぎに奪われた。それはやがて回復する病気やケガではなく、元通りになるのが困難な障害と捉えたほうがいい。それを受け入れることから始めるしかない、と。
 この覚悟の言葉に、共感を覚える。福島の復興など、気安く口にすることはできない。障害の意味を問いつづけるしかない。くりかえすが、福島は始まったばかりだ。それが希望の源になる。来たるべき社会をより豊かに思い描くこと。あらたな入会地がほしい。協同の形を創りたい。地域に拠って生きることの意味を問いかけてゆく。負けない戦いこそが求められている。