まだまだ戦後だった、子供の頃の記憶 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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まだまだ戦後だった、子供の頃の記憶

2024.04.15

鈴木 サナエ(すずきさなえ)

 3月19日の毎日新聞、オピニオンのコーナーに「笠置シズ子とパンパンの友情」と題して、女性のライターが書いている。今、NHK連続テレビ小説「ブギウギ」のモデルが笠置シズ子で、人気の高い番組だと聞く。笠置シズ子は、当時、蔑まれもしたパンパン達の生き方を理解し、共感力を持って接して、姉とも慕われ、彼女たちから熱狂的に支持されたらしい。

 私には、その「パンパン」にまつわる幼い頃の記憶がある。
 1957年、私は小学校3年生だった。敗戦後10年以上経ち、戦後復興を目指した巨大プロジェクト、電源開発による田子倉ダムの建設の真っただ中にあった。クラスには社宅の子と言われた、東大卒の父親を持つ身なりのいいお坊ちゃまもいたし、どう見ても、いつも清潔とは言えないランニングシャツを着て、腕が変に曲がっている痩せた男の子もいた。村一番のお金持ちのお嬢さんもいれば、補償金で急にお金持ちになった家の子、ダム景気に沸く商店の子、親が映画館で働いている人の子、そして、今まで只見にはなかった苗字の子がたくさんいた。当時は当たり前として受け入れていたこれらのことは、今考えると、実に多様性に富んだクラスだったのだ。
 私達の学年は二クラスだったが、隣のクラスにO君が居た。O君の誕生日には、なんとO君の家からクラス全員にケーキが配られたらしい。当時から、只見にパン屋さんはあって、アンパンとかジャムパンは売っていたが、ケーキはまだ珍しい時代だった。O君の周囲には「パンパン屋」などという言葉が飛び交うこともあったので、多分O君の家はパン屋さんで、ケーキもあり、お金持ちなのだと思っていた。授業参観に来るO君のお母さんは身なりのいい、利発そうな人に見えた。ぼんやりとそんなことを考えながら、ケーキを食べることができた隣のクラスの人たちが、ちょっぴり羨ましかった。
  次の年、4年生になると、クラス替えがあり、私はO君と一緒のクラスになった。今まで、分校に通っていた大手の建設会社の子供たちは、通学に会社のマイクロバスで本校に来るようになったので、クラスも大勢だった。担任の先生の「えこひいき」等は当たり前で、先生の目も、頭がよくて可愛い女の子に注がれるようだった。そして何より、とても楽しみにしていた、O君の家からの誕生日のケーキはこの年からなくなって、私はガッカリだった。
 5,6年はまたクラス替えがあって3クラスになった。電源開発の工事関係者は、その周辺も含めて、だんだんと少なくなっていった。ケーキ無しのO君のことはもうどうでも良かったが、また別のクラスだった。ただ、体格のいいO君は4~5人のちょっと乱暴なグループの仲間になっていたのを遠くから眺めていた。仲間の中でもO君はやはりどこか乱暴さが目立つ存在だった。只見では早くからテレビのある家も多く、そのテレビでは連日安保闘争のことが報じられていたし、社会党の浅沼稲次郎氏が暗殺されたのも、この年になる。
 1961年、私は中学生になって、小学生の時は蒲生分校、塩沢分校があったのだが、中学になるとクラスは一緒だから同級生はさらに増えた。田子倉ダム建設が終わり、その関係者は極端に少なくなっていたが、O君とはまた一緒のクラスになった。色白だったO君は仲間も別々になったせいもあるのだろうか、急に、乱暴もせず無口になり、おとなしくぼんやりしているように見えた。
 そんなある日、O君の表情が少し明るくなった。家族みんなで、新潟から船に乗って北朝鮮に帰るのだという。びっくりしたが、O君は希望に燃えているようだったので安心して見送った。

 私が「パンパン屋」の実態を知ったのはいつ頃だったのか、記憶にない。少なくともO君が北朝鮮に渡ったずっと後の事だ。当時、一度だけ、国道沿いで、白っぽいワンピースに赤いスカーフで髪の毛を結わえ、洗濯板で洗い物をしているそれらしい女性を見かけたこともある。O君の他にも在日朝鮮人もいっぱいいて、陰口を叩いたり、はやし立てる等のこともあったのだが、私自身はそんなに親しくもしていなかったせいか、それほど意識することもなかった。
 今、調べてみると、クラス全員にケーキが配られていた1957年に、売春禁止法が施行されてる。只見のこの頃は、電源開発工事ラッシュで、人口も爆発的に増えていたから、合法的に認められていた、商売繁盛のパンパン屋だったと聞くが、急に法によって廃業を余儀なくされたのだろう。多かれ少なかれ、みんなが時代に翻弄されたこの時代、O君の只見での後半の生活はさらに厳しかったに違いなく、まして「地上の楽園」を夢見て帰国した北朝鮮での生活を、私は思い描くことすらできない。勿論、今後、会うこともなく、消息も知ることもないO君、利発で活発だった一つ年上のお姉さん、綺麗なお母さん、どうかご無事でと、北朝鮮のニュースを耳にするたび思い出す。