【わっさな暮らし】杜氏に乾杯 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【わっさな暮らし】杜氏に乾杯

2024.01.01

井口 恵(いぐちめぐみ)

佐藤寿一さん(昭和10年生 金山町)

ポコン・・・        プクン・・・・
「(酒の)面(つら)見ると、なんだこれ、ちょっとおかしいなってわかる。毎日違うから、おもしろいんだよ。必ず蔵の中見てからでないと寝らんねぇ。で、そのまま蔵で寝ちまったこともあんだな」
発酵泡の出方と、もろみの回転具合でお酒の状態を把握する。
「勤めてる時は、家にいる時よりも蔵にいる時の方が落ち着いたんだよなぁ。なんかこう、ほっとするような感じ」
寿一さんは、会津の誇る蔵元“末廣酒造”で50年弱、杜氏(酒造りの現場長)を務めた。

夏場はタバコ農家をしていた寿一さんは、昭和35年に下働きとして冬の酒仕込みを手伝いに行くようになり、昭和42年から、多い時で21人の蔵人をまとめる杜氏を任されるようになった。
「言われたことだけをやればいいではない。何のためにこの仕事をやるのか、この次どうなるのか、今やっていることの意味を考えて向き合うことが、いい仕事になる」
大義名分が仕事の効率を上げ、モチベーションを向上させる。
杜氏という立場では、いち蔵人だった頃の酒との向き合い方から、酒造りの全行程と蔵人たちの様子まで広く意識するように変わっていったという。

かつて東北で上位に売れていた会津の酒も、昭和40年代頃から人気に陰りが出てきた。
食中酒として爽やかで軽やかな飲みやすい酒が流行り出すと、味付けの濃い保存食に合わせた濃厚な会津の酒は、「重い」と敬遠されるようになっていった。
「“末廣らしさ(味)”は簡単には変えられない。でも売れない酒を造っても意味がない。だから、流行とか、そういうこと少しずつ気配りしながら作ってた」
売上が低迷する中日本酒に関心を持ってもらうため、酒造りに興味のある個人がひとつの樽を管理する『自分の酒』制度を提案した。
「手伝って、自分で手をかけたやつは愛おしくなるから」
オーナーには仕込みに必ず同席してもらい、その後の醸造工程にも携わってもらった。
自分が造った酒だと、誇らしそうに、嬉しそうに友人に配り、造ったひとりから酒の輪が広がっていく。末廣酒造の人気制度になっていった。

寿一さんは杜氏として、酒造り以外にもたくさんの取り組みに挑戦した。
「酒は生き物だから、日曜も祝日も正月もない。行ったら蔵から出らんなかった」
① 精米→②洗米→③麹作り→④酛(もと)作り→⑤もろみ→⑥絞り
工程の中でも、麹作りが一番大変だ。
炊いた米に麹菌を付けて、適温を保つ繊細な温度調整をしながら3日で作る。
蔵には冷暖房などなく、外では深々と雪が降り積もる中、木炭を熾して温め、温度が上がりすぎると外から雪をかき集めて塩を混ぜながら筒に詰めて冷ました。
自分が苦労した労働環境を改善するため、一番大変だった麹作りを工夫した。
実験を重ねる中で、温度によって発酵を続けてしまう麹に風を当てることで、意図的に発酵を止めて休眠状態にすることに行きついた。
その結果担当人数を半減することになり、詰め続けだった蔵人たちの休みを確保することができたのだ。
また、普段自分の蔵に籠りっきりの蔵人同士の勉強と交流のため、会津の造り酒屋で『会津杜氏会』を結成した。
それは、なかなか見ることのない他酒蔵見学や作り方の情報共有など、それまで閉ざされた酒造界の横のつながりを作ることにつながった。

昭和53年から今でも町の特産品として人気の、金山町打越沢の湧水と横田地区で作る幻の酒米“フクノハナ”を100%使った『てまえ酒』の立ち上げも行った。
「わかんねぇもんだな。大変な酒造りなんてやりたくないと思ってたやつが、こうなっちまうんだよな。不思議な人生だった」
農家と同じで、色々試してできた時の喜び、働く喜びに夢中になり、気づくと杜氏になっていたとはにかみながらも、どこか誇らしげだ。

寿一さんの造った酒を酌み交わして、きっとたくさんの笑顔が生まれ、素敵な時間が醸成されたことだろう。
幸せな乾杯の名裏方、杜氏に乾杯。