縄文文化衰退説への疑問 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津を学ぶ

縄文文化衰退説への疑問

2024.01.01

菅家博昭(かんけひろゆき)

 2023年7月から11月まで、奥会津7町村で「奥会津の縄文」展が開催され、図録も刊行された。『会津嶺』(あいづね情報出版)は6月号から11月号まで本展の特集を掲載した。

 河北新報は2023年11月29日付けで、次のように報じている。

 縄文時代の奥会津は「文化の交差点だった」 福島・三島でシンポ
 考古学の成果を基に地元の伝統や文化を見つめ直すシンポジウム「再考・奥会津の縄文」が、福島県三島町交流センター「山びこ」であった。只見川電源流域振興協議会を構成する7町村で開催された企画展を振り返り、縄文文化が息づいていた奥会津の魅力について考えた------(以下略)。

 また、進行役を務められた赤坂憲雄氏も、福島民友新聞紙上の「いま奥会津から18」「一万年の時間を抱いて生きる・縄文文化に光り当てた」で報告された(11月28日)。

 この展示会の締め括りの催事が2023年11月4日に三島町で開催された。

後半の討議に登壇した際、私は、奥会津の将来を考えるためには、火炎土器に代表される縄文中期ではなく(もちろん、中期の検証は縄文時代を俯瞰するためには重要である)、後期の時代を検証することが必要ではないか?と報告した。2022年12月から行った事前調査・準備作業を重ねる中で、以下のようなことに気づかされたからである。

きっかけは、自分が経験したことが、他所では異なるということであった。
20代のときに昭和村と金山町、南郷村、舘岩村等の遺跡の発掘調査に関わった。そこでは縄文時代の中期と後期は接続されていた。つまり、縄文中期から後期の継続した出土物が確認できることが常態であると考えていた。
 しかし、磐梯町の法正尻遺跡もそうであったが、中期で終了する遺跡がある、ということ。会津田島地区でも、中期の遺跡は多いが、後期遺跡が少なくなり、見えなくなる。
 一方で、今回調査した檜枝岐では、後期の遺跡が現在の集落の場所で確認される、ということだった。山間地に生活拠点が変わるという縄文時代後期について、現在から将来を拓く可能性があると感じた。

 これまでの研究史を振り返ると、坪井清足氏の「縄文文化論」(『日本歴史』岩波書店、1962年)によると、縄文後期晩期文化衰退説が、現在も大きな影響を与えていることがわかる。中沢道彦氏は「中部地方の集落と遺跡群」(『縄文文化の繁栄と衰退』雄山閣、2019年)で、坪井氏の学説について以下のように批判している。

 「縄文文化は後期以降それ自身の生産力の限界によって発展性を失い、停滞的な社会をいとなんでいた」という坪井氏の主張は時代を反映し、唯物史観の影響を受けているが、後の縄文研究に大きな影響を与えた。坪井氏の「停滞的な社会」は、今日では「縄文社会の複雑化」の概念で整理されることが多い。(中略)」

 中道氏自身も、次のように書かれている。

 「かつて縄文中期の遺跡数、遺跡数の増加現象を「繁栄」という表現を用い、その意味を検討するシンポジウムを開催したことがあるが、縄文後晩期(後期晩期)を一概に「衰退」と評価する考えには違和感を覚える。(中略)」

 今日的な気候復元で縄文後晩期の寒冷化が指摘され、一定の動植物資源の変化は想定できるが、生業についてしかるべき環境適応がなされたのではないだろうか。そして、晩期後葉以降にイネ、アワ、キビなど大陸系穀物の栽培を従来からの伝統的な生業サイクルに加え、緩やかに変化したのが実態と考えている。
 縄文後期の検証は、奥会津の未来を考える上で、なにがしかの示唆を与えてくれるのではないか。