渡辺 紀子(わたなべのりこ)
ダム建設の頃、村の変貌に振り回されていたのは大人たちだったろう。これまでにない誘惑の罠がすぐそばにちらついていた。それはサキノたち子どもの比ではなかった。
「〇〇あんにゃは、清水(しみず)にうんと通ってんだと!」「〇〇あんにゃも行ってるようだぞ!」そんな大人たちが交わす噂話を、子どもたちは時折耳にすることがあったという。清水とは村のはずれにある地名で、その話に子どもたちは「清水には山ほど酒が飲める店でもあんだべな」と思っていたそうだ。そもそも、大人の世界のことなど子どもは関心もない。何気なく聞き流していた噂話の一つだった。
銀座通りの少し先に新たな店が出来ていた。バラックのような2階建ての建物で、その店で売っているという品物は子どもたちも興味をそそられるものだった。しかし、看板も無く、店先に品物が並んでいる訳でもない。ここでまた切り込み隊長のサキノに白羽の矢が立つこととなる。
「サキ、あそこに出来た店、『草餅屋』って言ってたぞ。まだ誰も入ったことねぇから買いに行ってみんべ」と。
どこで聞いたのか、誰かが「それは5円らしい」という。とりあえず5円を握り、5~6人の子どもたちでその店に突撃することとなった。勿論その先頭はサキノだった。早速店の中へ入り呼んでみる。
「草餅売ってくんつぇ!」
すぐには出て来なかった。
「草餅はどこに並んでんだべな?」
どこにも草餅は見当たらない。次に後ろに続く子供たちも声を揃えて、
「草餅売ってくんつぇ!」
その声を聞きつけて男の人が出て来たものの、いきなり怒鳴られてしまう。
「子めらに売る草餅なんかねぇ!さっさと帰れ!」
子どもたちの中には男の子もいたが、突然の怒鳴り声に店を飛び出してしまった。サキノはその場に立ったまま面食らったが、売れないと言うのだから仕方がない。意味も分からぬまま、店を立ち去るしかなかった。
「何だかサキたちが5円持って買いに行ったら、うんとおんつぁれて(怒られて)戻って来たんだと」
子どもたちの行状もたちまち広がっていく。その後その店に行く勇気のある子はいなかったようだ。
大人たちが“パンパン屋”、又は“草餅屋”と呼ぶ店が、やはりこの村にも数軒存在していたという。それらの店はよそから来た人たちが営んでいた。どれも掘っ立て小屋で、簡単に建てて簡単に壊せるようなものだったようだ。赤線廃止条例が公布されたのは昭和33年のことだから、決して違法な店ではない。(※1)飲み屋すら無かった小さな村の大人たちが、心落ち着かぬ日々を送ることになったのは容易に想像出来る。当時の青年団、消防団など、なおのこと浮足立っていたに違いない。
清水にあった店が村では一番大きいパンパン屋だった。本名の子どもたちには風来沢(かさぎざわ)という決まった川遊びの場所があったのだが、この店はそのすぐそばにあったという。
「パンパン屋に○○時に行くべな!」子どもたちは友達と約束を交わす。本名では子どもが一人で川遊びすることを禁じていたため、誘い合って行かなくてはならない。その定番の待ち合わせ場所がパンパン屋の前だった。いつもそこに一旦集合し、そこから川へ移動するのだった。何も知らぬ子どもたちはいつも無邪気にその店の名を呼び合っていた。
外に提灯がぶら下がっている昼間の店は、人の気配もほとんど感じないような佇まいだったと、当時そこで待ち合わせをしていた人が語っていた。昼には子どもたちが賑やかに集う場所が、夜には提灯に明かりが灯り大人たちが盛んに出入りする場所へと変わる。同じ場所でありながら、あまりに違う光景が繰り広げられていたのだった。
小さな村のあちらこちらに深い大人の世界が潜んでいた。それは人々の生活圏の狭間にスルリと現れ、ある日突然フッと消えてしまう。様々な世界が混在する小さな村で、知らぬ間に大人の世界に紛れ込んでしまう子どもたち。戸惑いながらも日々逞しく天真爛漫に過ごす子どもたちの姿が、とても愛おしい。
※1 本名では赤線廃止条例が公布された後も、これらの店は営業していた。電源開発という大きな事業に関わる地域、という大義名分もあったものか、確実な当時の事情は分からない。