【わっさな暮らし】 実生のちから | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津に生きる

【わっさな暮らし】 実生のちから 

2023.10.15

井口 恵(いぐちめぐみ)

小椋敏光さん(昭和31年生 南会津町)

広葉樹の山は、長い年月の中で常に循環を繰り返している。
大地のちからで、樹々のいのちが巡る。

「山の仕事は荒っぽくて、嫌だった。汗にまみれて木と格闘して、危険だし、すぐケンカになるし。家の跡継ぎが嫌で、どうしたら逃げられるかばかり考えてたよ」。
代々続く木地師の8代目で、父親の代から原木販売を始め、製材までを行う材木業の家に生まれた。
家業から逃げるように大学進学し、司法試験の勉強に将来を見据えて取り組んでいた。
思うように結果に繋がらなかった26歳の時、今後のことを考えて帰郷を決めた。
「他に行くとこないし、必死だった。ここでしくじったらやばい、何とかしないとと、今まで避けてきた家業の、木を覚えたりがむしゃらだった」。
敏光さんがずっと背負ってきた「長男が家を継ぐ」というプレッシャーの反面、父親からは一度も帰ってこいとは言われなかったそうだ。
帰郷から3年後、まだまだ分からないことだらけで失敗と勉強続きの中、突然父親が亡くなり、家業を継ぐことになった。

当時は、峰から峰、沢から沢と数十町歩の広大な国有林の伐採権を入札形式で落札して仕事を取ってきた。
自社内には多い時で20人の樵がいて、買い取った山に生える木を切って販売する。
その山に生える木の種類、量、質、値決めの際には山を見る経験が必要とされた。
それだけではない、いくら山を見る目が正確でも、競争なので競合他社の顔ぶれ、現場の雰囲気、経験からの勘、わずかの差で負けたらゼロの、駆け引きの世界だった。
「勝負、勝負の無茶苦茶な世界が嫌んなって、しばらく寝込んじゃった」。
大きな金額の大きな規模を扱う極度な緊張に苦しんだが、この経験が敏光さんの肝を据わらせた。
「頼る人もいない、自分のやり方でやるしかない」。

昭和30年代、建築ラッシュで木材が高値で飛ぶように売れる頃、軒並みあった経験豊かな山師を抱える材木屋は、国有林競売禁止をきっかけに淘汰されていった。
なぜ敏光さんのところは淘汰されずに残れたのか。
当時は目利きの銘木屋が1車単位(トラックに乗った丸太全部)でその場で言い値を提示し現金で買い取っていたものを、1本1本に値段を付け、丁寧に販売するように変えたことが注目された。
材木取り扱いは、相手を見て値段を決めるような専業の銘木屋の閉ざされた世界で、値段の付いていないものは素人の木工家にとっては高い壁があった。
そんな中、敏光さんの販売方式は画期的な試みで、他にも当時流行り出した“ワークショップ”や“セミナー”など、材木販売に留まらない多角的な挑戦を続けてきた。

仕事と並行して、地域の有志を集めた“もりを守る会”を続けてきた。
当時は、除伐間伐をして生育スピードを上げ「管理」することが、もりを守ることだと勢い込んでいた。
しかし、しばらく活動していく中で、無理に力を加えることで、どこかで歪が生じてくることに気づいた。
「はじめは認めたくなかったけど、広葉樹林は故意的に手を加えなくても、適しているところに、適した木が生えるんだ」。
もりを愛し、もりを守るために、「管理」することから、「見守る」ことに移り変わっていった。
ログハウスを作り、キャンプをし、あるがままの自然を「遊ぶ」ことが今の会の活動内容になっている。

現在は広葉樹の持つちからに注目した家づくりに力を入れている。
「木(気)がなかったら、家族は幸せになれないんだ」。
住む人の気持ちと、木の持つ力が調和して、最大限に幸せを引き出す家作りが誇りだ。
耐久性、機能性、装飾性以上に重要な“思い”、住まう人の心に寄り添い、思いを徹底的にヒアリングした家づくりに奔走する。

「山の中は常に新陳代謝が起こっている。木が古くなったから切っちまえはおかしくて、役目を終えたら自然に倒れて朽ちて、その足元から芽吹く。実生のちからはすごいよ」。
いままでも、これからも、再生を繰り返す奥会津の山の可能性を、敏光さんは力強く確信する。