遠藤 由美子(えんどうゆみこ)
「熊出没中注意」という看板が、夏のころから県内のあちこちに掲げられた。
今、冬眠のための食料補給に必死な熊たちは、田畑や人家近くにまで頻繁に出没して農作物を荒らしている。深刻な被害も多数報告されて、奥会津では連日出没地域やワナの場所などを知らせる防災無線が流れる。ワナに掛かるのはほとんどが子熊だという。
熊たちが暮らす奥山には、秋が深まっても実りの恩恵がもたらされない天候不順な年は、どんぐりや山栗などの木の実のや、不作の年の緊急食物であるブナの実まで結実しなかった年も多くなった。熊の好物の山ぶどうの実は、編み組み細工のためにほとんどが刈り取られ、熊の口には恐らく入ってはいまい。やむなく里近くに下りて、人間が食べることもなくなった柿の実を食べると、「放置果樹は危険故に伐採すべし」と、伐採される。冬越しの野菜が保管されているだろう小屋にも入らざるを得ないほど、生存が脅かされているのだ。
奥山と里山、熊と人間の厳然たる棲み分けが崩れた今、互いが危険を冒しながら隣り合って生きるという異常な状況に至ってしまった。稲刈り直前の田を荒らされたり、人家にまで侵入するという事態に、思い余ってワナを仕掛けたり、猟友会などによって駆除される数は日ごとに増えている。熊の個体数が増えて、縄張りを広げるために里に下りるのだという見方もあるが、本当にそうだろうか。繁殖力の低い熊の頭数を、どうやって数えたというのか。それは殺戮を正当化するための、人間に都合のいい理由付けでしかない。九州ではすでに絶滅し、西日本でも絶滅が近いといわれる絶滅危惧種であるのだ。数えたというなら、正確な頭数を示すべきだ。
数年前には会津地域だけでも、発表された頭数百余頭のツキノワグマが有害動物として駆除された。ただし、カウントされない数を含めると400頭を超えたとも言われる。駆除した熊はそのまま土に埋めて処分される。胸が痛むのは、生息環境を侵略した側の人間が一方的に熊の命を奪うということだけではない。「駆除」し「処分」するという言葉には、絶滅したオオカミに替わって奥山に君臨する王者たる熊の尊厳は微塵もなく、奥山と里山の境界を崩すことで、人間と野生動物との対等ないのちの尊厳をも崩壊させたことである。こうした言葉を、子供たちは日常的に聞くのだ。
―ワルイヤツは「駆除(殺す)」して「処分」してしまおう―
それは、なぜ熊が里山に下りるのかという背景に、人間が行ってきた多くの侵略があることをたとえ認識していたとしても、直接自分がかかわったわけではないという姑息な大人の勝手な論法が導く言葉である。いのちあるものに対して「駆除」や「処分」という言葉が日常的に使われることの本当の恐ろしさは、他の生き物に対してだけではなく、人間に対してもこの論法で片付けられる土壌を作っているということだ。お題目のように「いのちの教育」を掲げても、子供たちに何が伝わるのだろう。
生きるすべを求めた末に「処分」される動物たちが、いのちを賭して人間に教え残す言葉を超えた真実に、私たちは襟を正して向き合わなければならない。
秋田、宮城、岩手、新潟などの各県では、「特定鳥獣(ツキノワグマ)保護管理計画」を策定して、奥山(移動)放獣や事前の被害防除対策をとって何とか熊と折り合いをつけようと努力しているという。いのちの尊厳を見るというより個体数の維持が目的ではあっても、ともかく野生動物との話し合いを試みる姿勢に敬意を表したい。
例年よりも早い寒さの中で、クマの出没情報が今日もスピーカーから流れた。畑に記された足跡から伝わるのは、痛みと悲しみでしかない。人間には食べきれないはずの里栗を十分に食べて、一頭残らず生きて山に帰ってほしいと心から祈っている。
毎日新聞「とうほく彩発見」(2006・10)より再掲
※これは2006年に書いたものだ。なんと、20年前よりさらに状況は悪化している。20年間、全くの無為無策だった結果である。人的被害は熊の凶暴化によるものであると、荒廃した自然には一指も触れずして彼らの生存権を脅かすばかりでなく、害獣として殺戮することでその場しのぎをしているに過ぎない。荒廃した山の保全という根本的な課題が、人間側が為すべき責任であることを共通認識として捉えられないばかりか、絶滅させられたオオカミと同じ末路へと追いやろうとしている。
クマは、オオカミに替わって山の生態系の維持に重要な役目を負ってくれている。前回の「赤い山」も18年前の記述だが、こちらも同様に全くの無為無策を貫いている。
これはいったいどうしたことか。自然を壊すことでしか生きられない人間は、自然に対して野生動物たちより全く無力なのだ。たとえ高度な文明を享受しているとしても、自然を棲家としている生き物同士としては全く非力な生き物が人間である。その認識がない人間たちは、「害獣として殺戮する」という対症療法にのみ頼ってきた。自然はすでに、人間を含めた生き物が生きるに健やかな循環が崩れていることを、野生動物たちが示唆してくれていることに気づかねばならない。
殺戮するだけの無為無策には、いずれ、人間にとって悲惨な結果が出るだろう。その時にはもう遅い。(2026.10)