山ノ内七騎党のこと③ | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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山ノ内七騎党のこと③ NEW

2026.10.01

目黒 章三郎(めぐろしょうざぶろう)

                【山ノ内七騎党宗家・横田山ノ内家(その3)】
(前回まで~天正17年(1589)8月、山ノ内勢は横田中丸城から撤退し、只見川を渡り固城(かためじょう)である大塩の中山城と只見の水窪城に立て籠もり、越後の上杉景勝の援軍を待った。)

大塩の中山城

 越後の上杉氏と山ノ内氏は、「年来礼儀正しく、御仲睦まじ」い間柄であった。上杉氏は、芦名氏に代わって会津を治める野望を持ち、国境に位置する山ノ内氏に対しては宗主国のような態度で臨んでいた。山ノ内氏勝は、上杉景勝に猶子等2人を人質に差し出して援軍を乞うた。もとより小田原北条攻め前の秀吉からも山ノ内援助について下知があったことから、上杉氏は千騎もの援軍を遣わした。

 援軍を得た山ノ内勢は、先ず横田中丸城を奪還した。氏勝の弟に大学助がいる。家康に仕え駿府にいたが、兄を助けるために帰参した。この奪還戦も含め,大太刀を振るって奮戦したという。さらに氏勝は、ここで伊達勢についた一族の川口勢を追い散らそうと、橋立、本名と兵を出し勝ち戦となった。一方、伊達勢の拠点となっている布沢城へも攻撃を仕掛けた。横田から松坂峠を越える主力隊と、伊南川沿いの布沢口から攻める一隊に分け挟み撃ちにする作戦である。主力隊が布沢に入り、集落に火をつけ煙が見えたら布沢口からの一隊も突入するというもの。ところが、主力隊が急な崖の松坂峠を越えたところで、潜んでいた伊達方が背後から襲ってきた。同時に、前に控えていた敵も鬨(とき)を合わせて袋のネズミ状態となった。氏勝は、またもや松坂峠で死の瀬戸際までの窮地に陥り、郎党の犠牲も多く出したが、辛くも虎口を脱した。

 このように主力隊は布沢に達することができなかったので、もう一隊の援軍を無駄に温存することとなった。

松坂峠山頂付近。この辺りで氏家は二度も大敗した

 こうして氏勝は、再度、大塩の中山城、只見の水窪城に退き守りを固め、合戦は休戦状態になっていく。

 氏勝は、関白秀吉が私闘を禁じて発令した「惣無事令(そうぶじれい)」に反していると政宗の暴虐を訴えることにした。使いを山ノ内家の菩提寺である真言宗本城寺の僧・宥尊(ゆうそん)法印に託した。宥尊は、回国巡礼の僧のふりをして訴状を衣に縫い込み、関所を抜け京都の石田三成屋敷を訪ねた。そして、天正18年(1590)正月13日付けの石田三成からの返書が届くのである。内容は、「水窪、大塩の城を守ること、3月には、秀吉自ら出陣し小田原北条を成敗し、その後、黒川(若松)に出向き政宗の首を刎ねる」などと書かれていた。

石田三成書状

 一方、政宗である。秀吉は全国の武将に小田原参陣の命を発し、これに従わざるを得ない。更に、前述した惣無事令に違反し、会津の芦名を攻めた釈明が求められていた。
春となり小田原参陣を決め、母の保春院に挨拶に行った。その時の歓待の料理で毒殺されそうになるのである。保春院は、政宗を嫌い弟の小次郎を溺愛していて政宗を亡き者にしようとした企てであった。このことで政宗は、お家騒動を未然に防ぐため、弟小次郎を殺害した。保春院は、実家の最上に逃れた。
そうこうして、政宗が小田原に参陣したのが6月。浅野長吉を通して詫びを入れ秀吉に謁見できたが、その時、覚悟の白の死に装束で伺候(しこう)したのは有名な話である。そして、黒川を立ち退き米沢に戻るよう命ぜられた。

 7月小田原城は落城。秀吉は8月9日に会津に到着し、興徳寺に4泊。この時の、「奥州仕置」で、出羽・奥州の国郡にそれぞれの守護を定め、蒲生氏郷には会津、安積、岩瀬の諸郡を与えた。氏郷は、小田原の戦後処理の後9月5日に黒川に入城。

 文治年間、頼朝から会津の地を賜った「会津四家」は、約400年間の統治であったが、一斉にその所領を失うこととなった。氏勝としては、芦名氏の敵である伊達勢と戦い、三成からの応援の書状をもらい、上杉勢にも加勢してもらった。しかし、所領安堵は叶わなかった。これは私の推察になるが、氏勝にせよ、伊南の河原田氏にせよ、秀吉への(俗的な表現だが)「ヨイショ」が足りなかったからではないかと考える。それからすると、政宗の「役者ぶり」はさすがという外ない。三成からの返書に頼りすぎた、少数でも小田原への参陣がなかった、三成など秀吉に取り次ぐ武将への周旋をその後怠っていたなど、結果論になるがそう思わざるを得ない。

 その後の氏勝について諸説あるが、総合的にまとめ記述する。
天正18年(1590)10月2日、氏勝は越後に発つ。同行は、氏勝夫婦、子の朝通(ともみち)夫婦とその娘の計5人、これに従う家臣52人と伝えられているが、落ち着き先が決まったならば、移住を計画している人も多かったという。なぜ越後かといえば、会津の伊北郷と金山谷は「奥州仕置」によって氏郷の領地になったが、越後の山ノ内家旧領地は、特別に沙汰があったわけではない。上杉家(謙信や景勝)とは協調関係を保ち、時には上杉家の要請に応じて兵を出し、その働きの代償として越後の領地を譲られてきたと解することができる。この時上杉景勝にしても、「越後の山ノ内領地を返せ」とは言っていない。
 氏勝は、越後国(南)蒲原郡下田村下大浦(現三条市)に寓居し、慶長2年(1599)剃髪して俊勝禅定門と称したと伝えられる。

 慶長13年(1608)3月15日69歳で没す。葬儀は、山ノ内家の宗旨である上大浦の曹洞宗三大寺で執り行い、戒名は覚翁院殿前四品一山了心大居士。(一説には子の朝通の戒名とも) 葬られたのは、寓居していた下田村下大浦の真言宗日光山延命寺といわれている。

(次回は、その後の横田山ノ内家は会津藩に仕官。また、ダンサーのSUMとの関係)