【小説】 おっ返し | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

小説

【小説】 おっ返し 

2023.06.15

菊地 悦子(きくちえつこ)

「はあっ はあっ はあっ」
 立春を過ぎたばかりの早朝は、まだまだ真冬のように冷え込んでいた。囲炉裏には火がくべてあったが、トメは白い息を吐きながらうめいている。それなのに、痛みにゆがんだ額には、びっしりと玉の汗が浮かんでいた。
「トメ、もっとふんばれ」
 大きく開いたトメの両足の間に屈みこみ、とりあげ婆がいった。積み上げた藁の束にもたれ、あえぎながら天井を見上げていたトメは、吊り下げられた腰ひもにしがみつき、最後の気力をふり絞って下腹部に力を込めた。

「なんだべ。男のはずだったが」
 小声でそうつぶやいたのはトメの姑だ。ろうそくの炎がゆらりと揺れた。とりあげ婆は申し訳なさそうに、肩を丸めている。
 トメが子をはらんだとわかったときに、とりあげ婆はいったのだ。
「男のはずだ」と。
 トメには三人の子がいたが、どれもが女だった。とりあげ婆の呪(まじな)いでは、今度は確かに男と出たので、無理して産んだ子であった。もし最初から女とわかっていれば、そもそもこの世に生まれ出ることはなかったろう。冷害で不作が続き、藁が混じった薄いお粥でもあればいいほうで、家族はみな、いつも腹をすかしていた。女子の食い扶持を増やす余裕はなかった。
「おっ返さんなんね」
 男のはず、女のはずと生まれてきた子らが、周りの望みと違えていた場合、その魂がいた場所へとおっ返してやる。
男のはず、女のはずを呪うのは、たいがいとりあげ婆と決まっている。婆たちだけに伝わる呪法があるのだが、いつも当たるとは限らない。そんなとき、おっ返しの儀式は役に立つ。
その魂は遠いご先祖の魂かもしれぬ。おっ返した魂は、巡り巡りしていつかきっと、また出会えるものと人々は信じているのだった。貧しい暮らしの中で、そうと信じることで自分らの心を救っているのかもしれなかった。
 そうはいってもトメは母親だ。十月余り腹に宿した我が子を、せめて一度くらい腕に抱き、お乳をやりたい。しかしそれは許されることではなかった。一度抱き上げた我が子の命を奪うことは、さらに切なく罪なことだともわかっていた。
「むずせが、しょうもあんめ。また産まっちこうよぉ」
 そういって、姑は濡らした紙を、へその緒がつながったまま、まだ産声を上げぬ赤子の顔にそっと被せた。

 闇の中に一筋の光が降りてきた。光は暖かく、星々のまたたきのように時折きらきらと輝きながら、そのたびにしゃらんしゃらんと心地よい音を奏でている。
 地上に降りた光は、無垢な魂を回収すると、するすると再び天に向かった。気づけば同じような光の筋が、あちらこちらに見える。それらのいくつかは混じり合って光りの筒となり、やがて光の舟に姿を変えて、押し合いへし合いはしゃいでいる魂たちを運んでいくのだった。

「またいっぺ戻ってきたなぁ」
 魂たちがわらわらと戻ってくるのを見て、白髭のじさまは、さも困ったようにいった。魂たちは屈託もなく、じさまを目指し我さきにと集まってくる。じさまの髭に触りたくて、とんび上がるものもいれば、これまた真っ白な、束ねた長い髪にもぐり込もうとするものもある。さすがの白髭のじさまも、くすぐったいやら煩さいやら。我慢ができず体を震わせ、大きなくしゃみをひとつすると、白い着物の袂につかまってブランコ遊びをしていたものたちが、ころころと落ち、それがまたおかしいと大笑いをしているのだった。

 じさまの周りで無邪気にたわむれるものたちから少し離れたところで、ぽつりぽつりと対になり、また対の相手をひとり待ちわびているのは『えにし』たちだ。えにしたちは、いくど生まれ変わっても、必ずや夫婦にならんとする約束の魂たちなのだった。
 いく世にもわたり、えにしをつなぐといえば聞こえはいいが、それは容易なことではない。がんじがらめの腐れ縁ということもある。どちらかが早く生まれすぎたり、生まれてもおっ返されたりが続けば、何百年も出会えぬままということだって珍しくはない。どっちにしろ、えにしにつかまった魂は、寂しさも喜びも負わされて、そのぶん陰影も深くなるのだった。
 その中にはトメの子の魂もあった。
「また、産まっちこうよぉ」と念じられ、おっ返されたトメの子は、えにしの魂であった。対の相手とはすれ違うまま、もうどれだけの時が過ぎたのか、時を数えることのない魂の世界にあっても影を落とす。いつまで待てばよいのかもわからず、ただぽつねんと、はしゃぎまわる無邪気な魂たちを眺めながら、また長い長い時が過ぎるのだった。

 光の舟が魂たちを乗せてやってきた。多くのものたちがころころとはしゃぎまわる中、ひとつの魂がおずおずとトメの子の魂に近づいてくる。
 ふたつの魂はするすると近づき、そっと寄り添うと、ほかの魂たちと一緒に光の出舟に乗り込んだ。
 約束の出会いのために、生まれ落ちてゆく。そう、今度こそ。