【エッセイ】山の向こうのニライカナイ② | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

小説

【エッセイ】山の向こうのニライカナイ②

2024.12.15

菊地 悦子(きくちえつこ)

池間民族

 宮古島には五つの離島があり、そのうちの三つの島は、それぞれ橋で宮古本島とつながっている。三つの島のうち、一番大きいのが伊良部島、一番小さいのは来間島で、一番北にあるのが池間島だ。池間島の人々は、自らを池間民族と名乗る。そのルーツは、大海を渡りやってきた海の民なのだという。確かに、彼らの風貌には、北や南、東や西へと混血を繰り返し、海を越え、命をつないできた物語がうかがえる。海で生きるものとしての勘や、秀でた身体能力は、多様に混じりあった遺伝子から、海洋民族にとって必要不可欠なものが選ばれ、研ぎ澄まされた結果だともいえる。
 そして、よしこおばあのように、神に触れやすい体質もまた、どうやら池間民族のひとつの特徴のようなのだ。海に生きる民にとって、自然は豊穣であるとともに、むきだしの厳しい脅威にちがいなく、生と死は常に隣り合っている。彼らにとって祈ることは生きることと同意なのだ。だからこそ、神を引き寄せる鋭敏な感性が、民族の血流の中で凝縮されてきたとするなら、あるいは。もしかすると。池間民族という言葉には、ロマンをかき立てる魔力も宿る。

佐良浜の美代さんの神世界

 伊良部島の港町、佐良浜は、三百年前に池間島から分村した、池間民族第二の集落だ。南方カツオ漁が盛んだった頃は、海洋民族の誇りにかけ、一本釣り佐良浜漁師ここにありと、太平洋中にその名を馳せた。
 美代さんは、佐良浜で生まれ、佐良浜の漁師と一緒になり、子どもを育て、池間島のよしこおばあのようにツカサになった。彼女もまた、あちら側とこちら側をいったりきたりしながら、神の世界をリアルに描いてみせる。

「神様っていってもたくさんいるのよ。男も女も、若いのも年寄りも。ヘルメットかぶって迷彩服を着た男の神様もいるし、きれいな着物をつけた若い女の神様も」

 美代さんは、たくさんある小さいウタキの神様たちは、みんなオハルズの神様の手伝いをしているという。神の世界でも、お互いが助け合ったり、いさかいをしたり、生々しい神様関係が繰り広げられていると、まるでご近所の噂話でもするように、神々の近況を語って聞かせるのだ。
 当然のことながら、マズムンたちの姿もよく見える。家族の誰かが、うっかりとマズムンを連れて来てしまったりすれば、玄関先でどなって追い返す。マズムンにも強いものと弱いものがいて、弱いものなら美代さんににらまれるだけで、震え上がってしまうらしい。

「人は死んだら、魂はウタキに行く。でも、ちゃんと儀式しないと、道に迷ってマズムンになってしまうよ」

 宮古島で、仏式の葬儀をするようになったのは、わりあい最近のことだ。佐良浜では、そのずっと前から、人が亡くなると、『ダビわー』や『むい』という儀式をおこなってきた。『ダビわー』は、荼毘わー(豚)だろうか、豚をつぶして、親類縁者に振る舞う。『むい』は、霊魂がどのウタキに行くかを決めるとても重要な手続きで、ユタが、故人の魂と直接対話し、希望を聞くのだという。島にはユタと呼ばれる霊能者が多くいて、みな自分にあったユタを、まるでかかりつけの医者のように持っている。

 
ミャークヅツ

 池間民族最大の祭りがミャークヅツと呼ばれる豊年祭だ。
 池間民族ならば、たとえ地球の裏側にいてもミャークヅツには島に帰ってくる。夕刻になると、広場には続々と人々が集まり、酒甕を真ん中に踊りの輪が広がる。男たちが大地を踏みならし、こぶしを天に突き上げて、吠えるように踊れば、女たちは軽やかに跳ね、空を抱くように踊る。男も女も老いも若きも、幼子までが身体の中に彼ら共通の独特のリズムを持っている。
 絶妙のタイミングで、輪の中に飛び出し、即興で踊りだすものがいる。「アイヤイヤサッサ!サッサ!」と周囲がはやしたて、誰かが見事な指笛を鳴らす。即興の踊りは人々が交代しながらしばらく続き、いつの間にかまた踊りの輪が回りだす。
 酒甕の酒も回される。酒は白くてとても甘い。ミャークヅツの酒といえば、泡盛をコンデンスミルクで割ったミルク酒と決まっている。もっともこれは戦後の話で、そもそもはツカサたちが口で噛んで醸す神酒だったはずだ。

 踊りの輪には、カズミとミーホとジュンリ、そしてこどもたちの姿もあった。島にはこどもが多い。出生率とともに離婚率も高いからシングルマザーも少なくないし、再婚し、さらにこどもを産み育てる女性も多い。そんな女性たちが助け合って子育てすることも珍しくはない。女たちは、それぞれに事情を抱え、ある種の共同体を柔らかにつくっている。子どもたちは、カズミを「かあちゃん」、ジュンリを「母」、ミーホを「おかあさん」と呼び分け、母親たちはシフトを組んで、自分の子どもも仲間の子どもも、分け隔てなく世話をしていた。そして、彼女たちもまた、聖と俗、あの世とこの世のあわいを覗く人たちである。
 手招きされて、わたしも踊りの輪に加わる。提灯に照らされた人々は、一様に上気し、光が揺らいで影が動いた。彼らはみな、この世とあの世が交差しながら、この群衆を作りだしていることを知っているのだ。ミーホが、「去年アメリカに行ったおばあ、ほら楽しそうに踊っているさぁ」と、ささやく。島では、死んであの世に逝くことをアメリカに行くと言ったりする。アメリカは遠いが、行って帰れる距離でもある。死に人は、ウタキに行ったりアメリカに行ったり、まことに忙しい。
 わたしもあわいを捉えようと、夜が更けるまで彼女たちと踊り続けた。ぐわんぐわんと空間がゆがんだのは、たぶんミルク酒のせいだ。

ニライカナイを求めて

 砂浜に、白い神衣を羽織ったツカサたちが端然と並び、海に向かって神歌を歌い祈る。彼女たちは竜宮の神を待っている。竜宮の神は、海のかなたの理想郷、ニライカナイからやってくるという。捧げものの豚が一頭、ツカサが引いた結界の中で、あきらめたように横たわっている。祈りと歌は、神が来るまで続けられる。神の到着はドーンと音がしてわかるのだという。
 女たちの歌、祈り、青い海、常緑樹の森や暮らしのたたずまい、そういった島のすべてが故郷とは違っていた。違うほどに、わたしは強烈に魅せられ、そして、不思議なことではあるけれど、それは同時に激しく懐かしくもあったのだ。
 奥会津の父の実家で見かけたまじない爺、寝物語に聞いた狸や狐に化かされる話、墓参りの提灯、人魂を見たという従姉たち、歳の神の炎・・・。そんなこどもの頃の記憶が、ふいに現れては、わたしを故郷に引き戻す。そして案外、そんな心持ちが心地よく、もう一年、もう一年と滞在を延ばしてきたのかもしれなかった。

 今、山は優しい。あのじりじりとした病のような焦りも、すっかり影を潜めている。ずいぶん長い旅をしたのだと思う。
 近くの山道を歩く。木漏れ日が作りだす光と影の間に立ち止まり、目を閉じてニライカナイを待ってみる。風がふき、ゴウと木々が鳴る。
――――くる。
 突然、じっとりと湿った空気に包まれた。目を開ければ、わたしはウタキの森にいるのかもしれない。