彼岸蠟燭 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

小説

彼岸蠟燭 NEW

2024.10.15

菊地 悦子(きくちえつこ)

【一】

 ピンポンとチャイムが鳴るたびに店先に目をやるが、客が入ってくる気配はない。出入口を全開にしているせいで、暖簾が風に揺れ、チャイムのセンサーが反応するようだ。
のべつピンポンが鳴るので、戸を閉めましょうかという節子に、彼岸が近いものとノブさんは目を細めた。
「開けておきましょうよ。お客さんもその方が入りやすいでしょう」
 ノブさんは、腰をかがめ新しい蠟燭を小さなショーケースに並べている。豊かなグレイヘアを、頭の高い位置にお団子に結い、草木で染めたワンピースをゆったりと着ているノブさんは、西洋の絵本に出てくる妖精めいたところがあった。角度なのか配置なのか、ノブさんの手にかかると、小さな空間が、たちまち粋なしつらえとなるのを、節子は感心して見ていた。
 ノブさんは蠟燭屋の店主で、蠟燭職人でもある。蠟燭をつくり、注文があれば、いやなくとも、必要と思えば、そこに文字を入れたり、絵を描いたりもする。蠟燭の原料は漆の実からつくる蠟と決まっていて、いまどき漆蠟燭をつくって売る店など、日本のどこを探してもおそらくここだけに違いない。
ノブさんいわく、日本ではじめて蠟燭がつくられたのは室町時代の頃らしい。それが漆蠟燭だったという。江戸時代の末になると、暖かい地方でとれるハゼの実が使われるようになる。ハゼの実からは、漆に比べ格段に効率よく蠟がとれたから、漆蠟はすっかり下火になった。以来、和蠟燭といえば、ハゼ蠟燭のことをいうようになった。
 それでもノブさんは漆蠟にこだわる。
「これじゃなくちゃ、だめなのよ」
 そんなノブさんのために、漆蠟をつくり続けているのが幼なじみの長治さんだ。
ノブさんと長治さんは賽川村という山間の小さな村に育った。近隣の集落から離れて、ひっそりとある隠れ里のような村だという。その昔、賽川村の誰かが川にうっかりお椀を落とした。上流からお椀が流れてきたのを見て、隣村の人は初めて、川上に人が住んでいることを知ったという、嘘かマコトかわからない伝説があると、長治さんは笑って聞かせてくれた。
 賽川村では、少し前まで、村の人たちによって漆蠟燭が細々とつくられてきたのだそうだ。長治さんもノブさんも、幼いころから、大人たちが漆の実から蠟をとり、それを蠟燭に仕立てるのを見て育った。今では、もうつくる人はいなくなったというから、ノブさんは、この国最後の漆蠟燭職人ということになるのかもしれない。
 ノブさんは結婚を機に、長治さんは仕事の都合で、この町へやってきて再会した。この町は、大小の河川が扇状地をつくる盆地にあって、地域全体の中心地になっている。 
 ノブさんは、四十代の半ばでご主人をなくしてから、自宅で蠟燭屋を始めた。ふたりの子どもを育て、大学までいかせることができたのは、この小さな店のおかげだった。
 ノブさんの蠟燭は、手間や原料の希少性を考えれば当然なのだが、それなりに高い。それでも、盆や彼岸や命日に、多くは亡き人をしのぶため、わざわざ遠いところから買い求める客もいて、けっこう忙しい。
 両親を看取り、ぼんやりとひきこもっていた節子は、ノブさんに声をかけられ店を手伝うことになった。

                       ※
 
 ピンポンとチャイムが鳴る。また風のせいかと思っていると、日傘を畳みながら、女の人がひとり入ってきた。ハンカチで額の汗を押さえ、少し息を切らしている。九月も半ばを過ぎたというのに、真夏の日差しが照り付ける。
 近くでアブラゼミが鳴きはじめた。店の前の桜の木に飛んできたのだろう。
「あのぉ、お彼岸の蠟燭のチラシを見たのですが」
 藤のバッグから、四つに折りたたんだ白い紙を差し出した。
 ショーケースの上に置かれた蠟燭の炎が、風に煽られ、真横に倒れながら、息でも吐くかのようにぼうっと音をたてて揺れた。

【二】

 ダイニングチェアから立ち上がると、ギイギイと大きな音がした。脚の付け根がガタついている。両親が建てた築五十年のこの家で、ずっと使ってきた家具なのだから仕方がないが、去年まではなんともなかったものが、ここ最近、立て続けに壊れ出してきた。八畳ほどの台所の壁一面に据えられた大きな食器棚は、引き戸のガラスがひび割れたところを、ビニールテープで押さえてあり、テープの端っこが少しめくれて埃がこびりついていた。天井からぶら下がっている旧式のペンダントライトの電球もジジーと不穏な音をたてている。
 人が住まなくなった家は荒れるのが早いというけれど、父母が逝き、空っぽになった節子の心の隙を、家や家具や家電が容赦なくついてくるようで気が滅入る。
 十二年前、父が倒れた。母にも持病があり、身体が不自由になった父の介護を任せるわけにはいかなかった。兄と姉にはそれぞれ家庭があったから、独り者で実家暮らしの節子が介護を担うのは、自然の成り行きだった。短大卒業以来、地元の会社に十年以上勤めていたが、社長が代替わりをし、社員の多くも顔ぶれが変わっていた。もともと人付き合いが得意ではない節子は、環境の変化にうまく合わせ切れず、居場所をなくしてもいた。
 家事と介護は、案外、性にあっていたのだと節子は思う。気が付けば四十代半ばを過ぎていた。その間、いつまでも独り身でいる節子を母は時折心配したが、そもそも、この家の暮らしが、節子なしに成り立つわけもなかった。「結婚なんか興味ないもの」という節子の言葉を、家族皆が、納得したようなフリをすることで保たれたバランスでもあった。

「やんなっちゃう」
 節子は、消えかけの電球を見上げてため息をつき、冷蔵庫をのぞいた。豆腐が一丁と油揚げが一枚、黒豆を煮たのがタッパーに少し。冷凍室には枝豆とシイタケとむきエビがある。戸棚から高野豆腐を二枚取り出すと、鍋に出汁をはって凍ったままのシイタケと一緒に火にかけた。煮あがった高野豆腐一枚とシイタケを器に盛り、枝豆をはじいて散らす。鍋の残りに、自分用にむきエビを加えひと煮立ちさせ、片栗粉でとろみをつける。
 長年両親の食卓を準備してきたように、日に三度仏膳を整える。それが、節子にできる唯一の父母への贖罪だった。
「生きてたときは魚だってお肉だって大好きだった人がさ、死んじゃうとベジタリアンになるもんかしらね」  
 そう独りごちながら、高野豆腐と黒豆、炊きあがったばかりのご飯、豆腐の味噌汁をお膳に乗せ仏壇に供える。
「卵やチーズもだめってことは、なんならビーガン?」
 可笑しいほど独り言が増えているのを節子は自覚しているが、思ったことをあえて口にする。そうでもしないと、丸一日、声を出さずに過ごしてしまうからだ。

                       ※

 半間間口に、小さな暖簾がパタパタと揺れている。こんな所にお店があったかしらと、節子は足を止めた。白地に藍色で『うるし蠟燭』の文字が染め抜かれてある。スーパーの行き帰りにいつも通る道なのに、少し奥まっているせいか、今まで気づかずに通り過ぎていた。
 ガラス越しに中をのぞくと、ふいに戸が開き、小柄な女の人が顔を出して、「いらっしゃい」と節子に声をかけた。それが節子とノブさんの出会いだった。
 薄暗い店内は、せいぜい二畳ほど。玄関の三和土をそのまま店舗にしたのだろう。小さなショーケースの上には、灯のともされた蠟燭が一本燭台に乗り、オレンジ色の炎を揺らめかせていた。蠟燭の炎とは思えない大きさと明るさに、節子が驚いていると、
「和蠟燭ですからね。炎が大きいんですよ」
 ノブさんは、そういい、ショーケースから蠟燭を出して見せてくれた。
「うるしって、漆塗りの漆ですか?」
 節子が聞くと、ノブさんは、蠟燭にそっと触れながら、自慢気に答えた。
「そう、漆の実でできているのよ」
 一本一本手づくりしているというその蠟燭は、緑がかった薄い茶色で、上にいくほど、なだらかに太くなっていた。カーブに沿ってそっと指を這わせると、すべすべと肌に吸いつく。
 燭台の上の蠟燭の炎が、突然膨らんで伸び、右へ左へと踊り始めた。
「面白いでしょう。風がなくとも炎が踊るの」
 炎と節子を交互に見ながらノブさんはいった。
「あら、あなたったら、死んだ人と暮らしているのね。驚いたわ」
 驚いたのは節子の方だった。言葉を失っていると、突然ごめんなさいとノブさんは笑った。
「この蠟燭がね、そういうのよ」
 蠟燭は、うめくようにぼっぼっと音を立て、炎をあやしく捻じらせている。なんというところに来てしまったのだろうと思う一方、節子は、その場を動くことができない。節子を包み込むような、どこか懐かしい温かさが、そこにはあった。節子の頬は、蠟燭の灯に照らされて、ほんのり赤みが差している。
「うちで働いてみない?」
 ノブさんは、唐突にそういった。買い物帰りにふらりと寄っただけの初対面の節子に、いきなり働かないかというのである。思いがけなさに戸惑っていると、ノブさんはもう一度、「ね、うちで働いてみない」と、節子の目を覗き込む。節子は、引き込まれるように、ゆっくりと頷いていた。

   【三】

 ノブさんのつくる蠟燭には秘密があった。
 昼と夜がほぼ同じになる春分と秋分。その前後三日の七日間は、あの世の彼岸とこの世の此岸がもっとも近づく。ノブさんの蠟燭は、その時、彼岸と此岸をつなぐという。死んでしまった者と残された者が、出会うことができるのだ。
 しかし、誰もがその蠟燭を手にできるわけではない。この彼岸蠟燭を買えるのは、死者が会いたいと望んだ者だけ。ノブさんの店は、死んでなお、この世の誰かに心を残す死者の魂が、切実な想いを託す店でもあった。
 そして節子に任された仕事というのは、死者が会いたがっている人へ、彼岸蠟燭販売の特別営業をすることだった。
 怖がらないでね、と前置きをしながら、ノブさんは、それを節子の出勤の初日に切り出した。
「それでね、広報っていうのかしら。お知らせをしてほしいのよ」
 この頃は、情報ツールも多様化しているので、ターゲットに適した方法でアクセスする必要があるのだと、まるで敏腕マーケターのようにノブさんはいった。
「今までは、近ければ直接訪問、ちょっと遠ければ手紙でこと足りたんだけどね。最近はめっぽう怪しまれるのよ」
 無理もない。実は亡くなった人があなたに会いたがってます。彼岸蠟燭を買ってください。そこそこ値は張りますが。などといきなりいわれて信じる方がおかしい。インチキ宗教かと身構えるのが普通だろう。
 とくに最近は、とノブさんは愚痴る。
「うちは結構ですって、話も最後まで聞かないで、インターフォンをガチャンよ」
 彼岸蠟燭は、零細家内手工業で小売業のこの店にとっては、大事なボーナス。なくすわけにはいかないのだという。そして、少し慌てたように付け加えた。
「亡くなった人の願いをかなえて、安心して成仏してもらいたいし、残された人は、少しでも救われてほしいのよ、もちろん」
 これが、最初の顧客と、ノブさんは節子にノートを見せた.

依頼人 今村ケンジ(十四歳 死亡時)
死因 交通事故
会いたい人 今村初音(母)
 
                     【四】

 初音が、ポストにそのチラシを見つけたのは、息子のケンジの新盆が過ぎた八月の末頃だった。地元のフリーペーパーや宅配ピザの割引券と一緒に投げ込まれてあったのを、まとめて捨てようとして、ふと手が止まった。手書き文字のようなチラシのコピーが目に入ったのだ。
「彼岸蠟燭あります。亡き人の想いを届けます」
 亡き人に想いを届けるのではなく、亡き人の想いを届けるとは、いったいどういうことなのだろう。印刷ミスだろうか。チラシには続きがあった。
「彼岸と此岸が重なる夜は、会いたい人に会える夜。不思議な彼岸蠟燭あります」
 その奇妙な内容に訝しみながらも、日に何度も眺めてしまう。会いたい。夢でもいいから会いたいと思わない日はない。時を戻すネジはないかと、部屋中を狂ったように探し回って我に返ることもある。そんなものはあるわけがないのに。
 あの朝のケンジの後ろ姿をまた思い出して、初音はチラシを握りしめた。
 ケンジは、ようやく授かった一人息子だった。初めて我が子を抱いたとき、この小さな命のためなら、自分は何でもしようと誓った。熱を出すたびにひきつけを起こすケンジを背負い、泣きながら救急病院に駆け込んだ夜は一度や二度ではない。そのたびに、医師や看護師に、助けてくださいとすがり、お母さん落ち着いてと叱られた。
 ケンジが風邪をひいたり、転んで怪我をしたりするたびに、我が子を守れていないのではと、母親としての自信を無くす。歯科検診では虫歯が三本見つかった。「子どもの虫歯はお母さんの責任です」と歯科医はいう。初音にとっては、母親失格の烙印だった。
 少し大きくなると、野球でもサッカーでも、本人がしたいといえば大抵のことはさせたし、土日の練習や試合には朝早くから弁当をつくって付き添った。どれも長続きはしないのだが、だからといって咎めることもしなかった。本当に好きなことを、いつか見つければいいと思っていた。大事なのは、ケンジが今日、幸せでいるかどうかだった。
 ケンジは中学に入ると、途端に口をきかなくなった。年の割に幼く、小学校の高学年になっても母の膝に甘えてくるような息子だったのが、中学の制服に身を包むと、何かのスイッチが入ったかのように気難しくなった。初音の問いかけにも、ほとんど答えようとしない。繰り返し尋ねると返ってくる言葉は「うっせーな」と「べつに」。
 思春期の子どもにはよくあることだと、周囲はいう。仕事で不在がちの夫は「放っておけ」と気にも留めない。初音だけがただひとり、我が子の急な変化にとまどい、母親失格の烙印におびえていた。
自分は、どこか間違っていたのだろうかと、初音は思う。本当は逃げていただけだったのかもしれない。母親として自信がないから、子どもに嫌われたくなくて、ぶつかり合うことを避けてきたのではなかったか。
 そして、あの朝。「ケンちゃん、朝ごはんは?」と声をかける初音に返事もせず、スニーカーに足先を突っかけたまま、玄関のドアを開け、ケンジは学校へ行った。警察から電話があったのは、そのわずか十分後のことだった。
                       ※

「ケンジに、息子に、本当にもう一度会えるのですか? あの子、わたしに会いたがっているのですね?」
 日に何度もながめたチラシを持って、初音は、その住所を訪ねていた。ノブさんは、穏やかな表情で、初音の話を聞いている。
「あの日、息子は自転車で学校へ行く途中で、車にはねられたのです。警察の話では、赤信号なのに、交差点に突っ込んだらしいのです。遅刻しそうで急いでいたのかもしれません。でも、あの子、もうずっと口をきいてくれませんでしたから、息子が何を考えていたのかよくわからないんです」
「わざと飛び込んだんじゃないかと、心配していらっしゃるの?」
 初音は、うつむいて手元のハンカチを握りしめた。しばらくの間そうしていたが、やがて、それを口元に当てながらいった。
「まさかそんなはずはないと思いながら、わたし、自信がないんです。息子に疎まれる愚かな母親なんです。自分の子どものことがよくわからないなんて、母親失格でしょう? わたしがもっとしっかりしていたら、こんなことにならなかったと、そのことばかり。ケンジに申し訳なくて」
 息子の突然の死という現実は、受け止めるには大きすぎる。加害者を恨もうにも、信号無視をしたのは息子の方だ。絶望を抱え込んだまま、初音は自分を責め続けることしかできなかった。
 ノブさんは、初音の背中をいたわるように撫でている。子どものいない節子に初音の本当の気持ちはわからない。ただ、大切な人の死に対する自責と恐怖は、また節子のものでもあった。 

 あの日、節子は風邪をこじらせ、ひどく熱もあった。半身が不自由な父親の、夜中のトイレ介助を済ませると、「何かあったら呼んでね」と、肺を病み酸素吸入が離せない母親に任せ、久しぶりに二階の自室で、ほんのつかの間のつもりで休んだのだった。いつもは、父と母の傍に横になり夜を過ごすのだが、風邪を老親にうつしてはいけないという配慮と、何より節子自身が疲れていた。十年に及ぶ先の見えないふた親の介護は、節子が思う以上に、重い負担となっていた。あの夜、今夜くらいひとりで寝かせてと、節子は思ったのだ。薬のせいもあったのだろう。節子が目を覚ました時には、すでに日が高くなっていた。
 その夜、父は発作を起こし、それに気づいた母は、節子を呼んだ。声を限りに叫んでみても、細い声は力なく、熟睡する節子の耳には届かない。呼吸器を外したまま二階へ上がろうとして、母もまた倒れた。節子がふたりの異変に気づいた時には、すべてが手遅れだった。兄や姉から責めを受けるまでもなく、父母の死の責任が自分にあることは明白だった。

「あとは節っちゃんお願いね」
 そういって、ノブさんは忙しそうに奥の工房に戻っていった。商売の話は節子の役目だ。
「わたしがお金の話なんかすると、神通力に水を差すようじゃない?」ということらしい。
 お彼岸の晩に蠟燭に火を灯すと、燃焼している間、息子さんと再会できること。蠟燭の価格は燃焼の時間に応じること。十分で五万円、二十分で十万円といった具合に料金が決まること。最長一時間まで可能であることを説明する。注意事項として、一度火をつけた蠟燭は、燃え尽きるまで消さないこと。最後に、料金は後払いでいいことを伝えると、初音はほっとしたように頷いた。
「なにか不都合があって、例えば、もし、息子さんとお会いできないような場合は、お代はけっこうです」
「そういうこともあるのですか?」
 そう聞かれても、新米の節子にはよくわからない。何でも絶対はないですからね、とお茶を濁す。
初音は、一時間分の蠟燭を大事に抱え、帰っていった。
 最初の客で最高額の売り上げがあったことに、節子はほっとしていると、入れ替わりに長治さんが現れた。
「どう?商売の方は」
 深い皺を刻んだ日焼けした顔を奥に向けて顎をしゃくる。
「蠟は足りてっかなと思ってよ」
 ノブさん呼んできましょうかという節子に、いやいや、かきいれ時だからいいよといって、上がり口に腰をかけた。
 たった今、節子がつくったチラシを持ったお客がきて、彼岸蠟燭を一時間分買っていったことを報告すると、そりゃよかったと朗らかに笑った。
「節っちゃんに来てもらってよかった。ノブもいい人見つけたって喜んでたよ。この時期は大変だから。蠟燭つくるんだって、盆や法事用とは違う。心身削って、精も魂も尽き果てるわけだ。夕鶴のおつうみたいなもんかな」
「ノブさん、彼岸はボーナスなんだって」
「それだけじゃないな。使命感っていうか、サガっていうか、もともとそれが仕事だったんだよ、ノブの家系は」
「賽川村じゃ、蠟燭をつくる家は何軒もあったって聞きましたけど」
「どの家でも盆、正月には漆のお灯明あげてな。自家製も多かった。彼岸の中日はさんでの三日間は特別で、村祭りをやるのさ。特に秋の彼岸は盛大で、一晩中踊りまくるんだ。踊りの輪には、先祖もいれば、ついこの間死んじまった親戚もいる。年よりだって子どもだってな。それを誰も不思議だとは思わねぇ。死んだもんも生きてるもんも、みな村の仲間だ。あの世から、ちょいと里帰りみたいなもんだな。その晩に灯す蠟燭つくるのが、代々ノブんちの家だったのさ。昔っからノブんちの蠟燭には、そんな力があってな」
 しかし、村は年寄りばかりになり、若い人は出て行ったきり戻ってこない。伝統の彼岸祭りも途絶えてしまった。ノブさんは、先祖代々受け継いだ能力と技術を終わらせないために、この商売を始めたんだと長治さんはいった。
「蠟を売らずに、なに油売ってるのよ」
 長治さんの声を聞きつけ、奥からノブさんも出てきた。
「この人、他人事みたいにいってるけど、漆蠟をなくしちゃいけないって、わたしの方がハッパかけられたんだからね」
 ノブさんたちの村では、漆の木をたくさん育てていた。漆は掻いて金になり、蠟にして金になる、村の大事な財産だったが、働き手ばかりでなく、なんせ需要がなくなった。地元ではもう手入れをする人もないという。長治さんは、月に一、二度、片道二時間かけて村に通い、漆畑を守っているのだ。
 漆蠟づくりは、冬、落葉した漆の木から実をもぐところから始まる。この時に一番かぶれやすく「せっかく弟子を見つけても、みなやめちまう」のだそうだ。
 房状の実はバラバラに落とし、臼と杵で突いて、殻と外皮と蠟粉に分ける。殻を除いて蒸して絞ったものが蠟になるというわけだ。
「体力勝負だから、年々きついよ。オレもいつまでできるかなぁ」
 長治さんはイタタと腰を押さえて立ち上がった。冬になったら一緒に実もぎに行ってみるかと、節子を誘う。節子は喜んでと答えた。彼岸と此岸の人々が、一緒になって踊りあかすという、賽川村を訪ねてみたいと思った。
 
                      【五】

ノ ブさんが芯巻きをしているのを、節子はスマートフォンを手にしたまま見入っていた。和蠟燭と洋蠟燭の大きな違いは、蠟の原料だけでなく、その芯にあることを、節子は初めて知った。洋蠟燭の芯は糸だが、和蠟燭は和紙の上から灯心草を巻きつけてつくる。灯心草とは、イグサから皮を取り除いたズイの部分だ。イグサのズイは驚くほど軽く、繊細で切れやすいのだが、ノブさんは二本取りで、するすると均等に手早く巻いていく。
 和蠟燭の芯は中が空洞になっているから、蠟燭に火を灯すと、空気が蠟燭の中心を流れ、炎が揺らぐ。そして芯が太い分、炎も大きくなる。多少の風では消えることもない。
「彼岸の仕事がひと段落したら、芯巻きやってみる?」
 流れるような動きに見とれている節子に、ノブさんはいった。いいんですか? といいかけた時、節子のスマートフォンが鳴った。
「あ、返事来ました」
「例のメタなんだっけ、あの件ね」
「メタバースの彼女さんです」
 心臓発作で急逝した四十代の男性トンビさんからの依頼だった。トンビさんは、メタバース、つまりインターネット上の仮想空間で出会い、付き合うことになった恋人に、せめて一目だけでも会いたいという。
「現実ではまだ一度も会ったことがない彼女さんなんでしょう?」
 まあ、難しいと思うけどねとノブさんはいい、節子もそれに同意しながら、とりあえずはと、彼女さんのアカウントにメッセージを送ることにした。
『突然すみません。トンビさんがあなたに会いたがっています。ご連絡下さい』
 ただそれだけの文章に、蠟燭屋の住所と電話番号を添えたのだが、まさかの返信が来たのだった。
「胸騒ぎがしていました。今日の午後参ります。よろしくお願いします。ですって!」
「あら、以心伝心。最近珍しいことだわ」
 肉体から離れたところにある出会いというのは、案外、より相手の本質に向き合うことになるのかもしれない。その分、お互いの間に、共鳴や共感、あるいはテレパシーのような感覚が生じやすくなったりするのだろうか。

 彼女さんは、白いワンピースに身を包んだ、清楚な雰囲気のお嬢さんだった。三十代後半という年齢より、ずっと若く見える。
 二人のいる仮想空間は、アナザーワールドといった。トンビさんが亡くなったことを伝えると、彼女さんは、目を見開いたまま、しばらくは口もきけずに固まっていたが、「どうしよう。わたしのせいだ」と泣き出した。
 仮想空間で、お互いに惹かれあったふたりが、現実の世界で初めて会う約束をした。その日が、今日だったのだという。
「わたし、急に恐ろしくなって。この年まで、誰を好きになったり、お付き合いしたりって、なかったんです。男の人はなんだか怖くて、緊張してしまって、どうしていいかわからなくなるんです」
 仮想空間だからこそ自由に振舞えたが、現実の世界では、そんなわけにはいかない。トンビさんが同じ町に住んでいることを知った時には、運命の人だと思った。その特別な存在を失望させてしまうのではと、彼女さんは恐れていた。現実のトンビさんを想像するのも、また怖かった。
「後悔しました。会いましょうなんて約束しなきゃよかった。もう何もかも終わりって気がして、それで、心の中で思ってしまったんです。消えて!って。だからトンビさん、死んでしまった。なんてことしちゃったんだろう」
 彼女さんが子どもの頃、意地悪をしてくるクラスメイトがいたという。その子が目の前からいなくなればいいと思っていたら、本当に転校してしまった。そんなことが、これまでにもいく度かあったのだと、彼女さんは苦しそうにいった。
「トンビさん、わたしのこと恨んでるんですよね。わたしなんかと出会わなかったら、死ぬこともなかったって」
「まあまあ、落ち着いて。あなたにそんな悪魔のような能力ありゃしませんとも。わたしにはわかるわ」
 ノブさんは、下唇をきつく噛みしめ、震えている彼女さんの両腕をポンと軽く叩いた。
「あなたはね、トンビさんと会わなきゃ。きっとあなたも気が楽になるはずよ」
 彼女さんは、小さく頷き、十分間の彼岸蠟燭を、白いハンカチにそっと包んだ。

「仮想の世界で出会って、次は魂の世界で再会して。トンビさんと彼女さんは、よほどご縁が深いんだろうね。なんだか続きがありそうじゃない?」
彼女さんを見送ると、ノブさんがつぶやいた。
 ショーケースの上で灯し続けている蠟燭の炎が、左右に揺れながら伸びては縮む。足元からぐにゃりと世界が曲がるよう覚束なさに、節子は思わずショーケースを押さえた。現実なんて、思っているよりずっと不確かなのかもしれないのだ。

【六】

 節子が出勤すると、ノブさんはひとり、蠟燭の炎をぼんやりと見つめていた。高く伸びた炎が、渦を巻くようにふぁんふぁんと揺れている。お客が来ているようだ。ノブさんは炎を見つめたまま、時折唇を動かすが、その声は、節子には届かない。節子は邪魔をしないように、黙って待っていた。
 節子は自分を店で働かないかと誘った理由を、ノブさんに聞いたことがある。
「だって、あなた、死んだ人に囚われて、いつまでも一緒に暮らしているからかしら、ここにいても平気でしょ」
 ノブさんが見抜いたとおり、こういう場にいても、自分が何ともないことがありがたかった。ノブさんにいわせれば、案外それは珍しく、多くの人が寒気や頭痛がしたり、眠くなったりするそうで、そんな体験が続けば、やがて身体に変調をきたす。結局、それが原因で、誰を雇っても長続きしなかったらしい。
 ノブさんがふと顔を上げ、節子に気づいた。
「あら、節っちゃん、いたの。おはよう」
 いつものノブさんに戻っていた。
「今、ちょっと変わったお客さんが来てね。ワンちゃんが飼い主さんに会いたがってるの」。
 依頼主が犬だったことばかりではなく、それを受け取ることができるノブさんの力に節子は驚いた。
「あら、人だって犬だって同じよ」
 そういうと、ノブさんは、煙草をくわえ蠟燭の炎で火をつけた。客を迎えた後、ノブさんは必ず一本、煙草を吸う。すぼめた口から煙の輪をぽっぽと吐き出しながら、「浄化のおまじない」と、いたずらっぽく笑った。インドネシア産だというノブさんの煙草は甘い香りがした。

「ここだわ」
 古い平屋建ての前で、節子はつぶやいた。依頼主の犬がいう、住んでいた街の様子はかなり正確で詳細だった。スーパーや公園の名前から、おおよその見当はついたが、見える景色は犬のものである。時折、身をかがめ、犬の視点で確認し、ようやくその家を突き止めたのだった。住所が不明で、表札もなかったが、板塀の下の方にある小さな破れ穴が決め手になった。
 なんと切り出すべきかと思いあぐねながら、節子は呼び鈴を押す。インターフォンではないことに感謝した。留守でなければ、顔を見て話すチャンスがある。
 少し時間があって、玄関ドアがわずかに開けられた。チェーンは掛けられたままだ。
「突然すみません。新田岳人さんですね。飼っていらしたワンちゃんのことで」と節子がいうと、息をのむ気配があった。ドアは再び閉められそうになる。
「ゴロちゃんのことでどうしてもお話がしたくて。ほんのちょっとでいいので。ゴロちゃん、岳人さんのこと、とても心配しているようなんです」
わずかなドアの隙間に、節子が語りかけると、ゆっくりとチェーンが外された。

                      【七】
 
 目を覚まして時計を見ると、七時近くになっていた。毎朝、決まって六時になると、岳人の布団をはぎ、顔を舐めてゴハンを催促するゴロの姿が見えない。隣に寝ていたはずのゴロが居ない。
「ゴロ、ゴロ」と呼びながら、リビングに行くと、ゴロが部屋の隅でぐったりしている。投げ出された四本の脚は、小刻みに震えていた。
「ゴロ、大丈夫か、どうした」
 声をかけても、ゴロは岳人をちらりと見たきり、また目をつむる。息が荒い。昨夜は元気だったのにと、焦る指で受話器を取り、かかりつけの動物病院の電話番号を押した。自宅開業の獣医と、いつでも連絡が取れるのがありがたい。
「ゴロ。しっかりしろよ。すぐ病院で診てもらうからな」
 ゴロをバスタオルでくるみ、抱き上げて、車の後部座席に寝かせた。ビョーインというだけで、逃げ回るゴロが、抵抗もせずぐったりと横たわっているのだ。ただ事ではなかった。
「ゴロ、ビョーインだぞ、ビョーイン」
 わざとビョーインを繰り返してみる。ゴロの耳がぴくりと動いて、一瞬岳人を恨めし気に見るが、その目は、また力なく閉じられた。
「チックショー、ゴロ、すぐだからな」
 岳人は、急いで車を出した。

 六十五歳で定年を迎え、退職後は夫婦で旅行でもしようと楽しみにしていた岳人だが、妻に癌が見つかる。すでに末期で手の施しようがなかった。
 妻を亡くしてからしばらくの記憶が、岳人にはほとんどない。そのしばらくが、一年なのか二年なのか、もっとなのか、それすらもわからない。毎日、どう暮らしていたのか、寝ていたのか、それとも酔っていたのか、靄がかかったようで思い出せない。
 ある時、公園のベンチでぼんやりしていると、足元に薄汚れた子犬が一匹、じっと岳人を見上げていた。岳人を見上げ、「くぅん、くぅん」と心細そうに泣く。腹が減っているようだった。一緒に来るか? と声をかけると、首を傾げて、くぅんと答え、岳人の後をとことこ付いてきたのだった。その日から子犬は、岳人の家族になった。撫でてやると、ゴロゴロと猫のような声を出すものだから、ゴロと名付けた。
 あの時、ゴロが目の前に現れなかったら、自分はどうなっていたのだろうと、岳人は思う。あれから十年、いつもそばにゴロがいてくれた。一緒にご飯を食べ、一緒に寝て、買い物にもゴロは必ずついてきた。店の前では辛抱強く待っていて、岳人が出てくると、懐かしくてたまらないという顔をした。そして、ちぎれるほど尻尾を振るのだ。まるで何年ぶりかの再会のように。
「ゴロ、頑張れ!」
 後部座席に声をかけながら、いつもより速いスピードで車を走らせていた。交差点に差し掛かると、タイミングよく信号が青に変わり、岳人はそのままアクセルを踏んだ。 

                     ※

「目の前に自転車に乗った中学生の男の子が飛び出してきました。急いでブレーキを踏みましたがもう遅くて……」
 節子の突然の訪問に、疑い深そうにしていた岳人だったが、ゴロの魂が岳人に会いたがっていることを告げると、驚きながらも、ぽつりぽつりと話し出す。
 男の子は、救急車の到着も間に合わずに息を引き取った。事故の現場検証のため、ゴロを病院に連れていくこともできなかったのだと、岳人さんは、油気のない、耳まで伸びた白髪頭を振りながら肩を落とした。
「せめてゴロを病院へと警察に懇願しましたが、かないませんでした。人を轢いてしまったんですからね」
 結局、ゴロも助からなかった。自分は、ふたつの命を同時に奪ったのだと嗚咽する岳人さんに、でも、相手の中学生の信号無視が原因だったんですからといってはみるものの、それが慰めにもならないことは、節子自身がよくわかっていた。
 そして、その中学生というのが、ケンジであることも多分、疑いようがなく、交錯するふたつの死の偶然に身が震えるのだった。いつかノブさんがいっていた言葉を思い出す。
「人が一生かかって出会う縁なんてものは、案外、狭いところにごちゃっとあるのかもしれないよ。みんなもつれあってね」
 岳人さんは、翌日来店し、一時間分の彼岸蠟燭を買っていった。
「もう一度、ゴロとサンポできるんですね」
 そういって、手拭いで顔ごと覆うように涙を拭った。
 
                     【八】

 彼岸が開けると、街から熱気が引いた。暑さを連れてくる蝉と入れ替わるように、草むらの虫たちが秋を呼ぶ。
「暑さ寒さも彼岸までって、昔の人はうまいことをいうものよね」
 ノブさんは、溶かした蠟を満たしたロウブネに、串に刺した芯を浸しては乾かし、浸しては乾かしていた。芯は蠟をまとうたび、少しずつ太くなっていく。ある程度太くなったら、手のひらでしごくように蠟をつけていく。これを何度も繰り返し、カンナをかけ、蠟燭の形ができていくのだ。
 工房はかなりの暑さになるが、開け放した窓から涼しい風が入ってくるのはありがたかった。結局、彼岸蠟燭の売り上げは三本。それでもノブさんは「三本、上等」と機嫌がいい。一度、彼岸蠟燭を買ってくれたお客さんは、盆正月の行事だけでなく、趣味用にと求めてくれることが多い。漆蠟燭の、まるで生き物の意思をもつような炎のゆらぎと、かすかに甘やかさのある香りが人の心を捉えるのだろう。
初音さんは、彼岸中日の翌日に、店にやってきた。
 息子のケンジは、あの日の朝、家を出たときと同じ制服姿で、ただいまと帰ってきた。好きだった豚の生姜焼きを、とても美味しそうに平らげて、「やっぱりお母さんの生姜焼きはこの世イチだ」と笑ったそうだ。
「あの子、お母さん、ごめんって。自分でもどうしてあんなにイライラしてたのかわからないっていいました。それから照れ笑いしながら、お母さんのこと大好きだから。ありがとうって……」
 初音さんは、泣きはらした目を、またハンカチで押さえた。
「わたし、母親なのに、いちいち自信なくして、そんなだからあの子も途方にくれたんでしょうね。もっと、ドーンと構えていればよかった」
 初音さんは、息子さんに先立たれた悲しみに、これからも何度でも泣くのだろう。その涙は、一生かかっても乾くことはないのかもしれない。それでも、追いつめられるような苦しみから、少しは解放されただろうか。そうであってほしいと節子は祈った。
 
 店先で、赤い花火のように咲き狂っていた彼岸花も、色が抜け花びらが痩せ、萎れた姿を見せている。よく見ると根元から若い葉が出かかっていた。
「葉は花を見ず、花は葉を見ずってね」と、ノブさんが歌うようにつぶやく。
自ら散ることができない彼岸花が、すがれて萎えて、やがて秋雨に溶ける頃、トンビさんの彼女さんから、メールが届いた。

『先日はありがとうございました。短い時間でしたが、トンビさんと会いました。トンビさんは、そのままのわたしでいいって、無理する必要なんてないっていってくれました。トンビさんが死んでしまって、本当に寂しい。自分でも驚くくらい、トンビさんが恋しい。トンビさんは、現実ではどんな人だったのか知りたくて、彼が所属していたボランティア団体に、わたしも入会しました。保護犬や保護猫の里親を探す活動です。トンビさん、とても熱心に参加していたそうです。もう死んでしまった人なのに、今、少しでも近づきたいと思うのです。なんだか、そこからわたしの一歩が始まるような気がして。』
 メタバースは、もうやめるつもりと添えられていた。

   【九】

 杉の木立がいっそう昏い緑を沈める一方、ほぼ葉を落とした落葉樹の林には、乾いて青を深めた空から陽光が注いでいる。初雪があったというから、もう幾日もしないで、賽川村はすっぽりと雪に包まれるのだろう。
 十一月の半ばを過ぎたある日、長治さんに誘われ、節子は漆の実をもぎにやってきたのだった。
帽子の上からスカーフを被り、マスクにゴーグル、手袋にアームカバーという完全防備の節子の姿に、長治さんは「気合い入ってるな」と、大笑いをしている。
 降り積もった落ち葉をカサカサ踏んで、長治さんの後を追う。坂を上がりきった台地に漆の畑はあった。ほぼ等間隔に数十本もの漆の木が植えられている。想像していたよりも、ずっと規模が大きいことに節子は驚いていた。
 漆の木は、白みを帯びた幹から、ぎこちないほど真っすぐ伸びた枝々に、黄色い小さな実の房をつけている。
「まあまあだな。じゃ、はじめるか」
 長治さんは、漆の実を見上げ、肩に背負った伸縮はしごを降ろした。
 長治さんが、長い柄のついた鎌で房ごと実を落とすと、節子はそれをムシロに集めていく。
「ほら、節っちゃん、ナイスキャッチしろよ」
 梯子の上から、長治さんが冗談を飛ばすたび、節子は声を出して笑った。久々の遠出に、節子も気持ちが弾んでいる。
 低い太陽が木々を照らし、長い影をつくる。影と影の間に、落ち葉が跳ねるように光っているのも、節子の心を浮き立たせた。
 作業を終えると、ふたりは集落を歩いた。道に沿って、茅葺屋根に青や赤のトタンをかぶせた家が、二軒、三軒とくっつきあって並んでいる。家の多くに板戸が立てられ、無人であるのがわかる。『たばこ』の看板を下げた商店も閉められていた。
「たった一軒の店だったんだがな。たばこでも酒でも肉でも魚でも、シャツやパンツも、それこそ何でも売ってる村のスーパーコンビニだ」
「買い物は、今はどうしてるんですか?」
「週に二回、移動販売車が来てる。ほら、節っちゃん、そこの六地蔵のところを下りていくんだ」
 彼岸祭りの場所が見たいという節子に、長治さんはいった。
六地蔵の赤い前垂れはすっかり色あせていたが、足元に鮮やかな赤い花が供えられている。さざんかだろうか。日頃お参りをする人がいるのだろう。道を下ると広場があり、石がごろごろと転がる河原につながっていた。
「昔はこの広場に村中の人が集まったんだ」

 節子は、広場の真ん中に立って目を瞑る。
どれだけそうしていたのだろう。瀬鳴りの合間から、ふと、笛の音が聴こえたような気がした。ざわざわと人の気配がして目を開けると、川は霧でかすんでいた。
 目を凝らすと、白い着物を着た子どもたちが、一心に石を積んでいる。
「ああ、そうだった。ここは賽の河原なのだ」
 節子は、なぜかここをよく知っていた。かつては自分も、ここで石を積むひとりの子どもだったのだ。
 自分の背の高さまで石を積み上げ、得意がる子どもがいれば、積んでも積んでも転がり落ちる石を、仕方なさそうに見つめる子どもの姿もあった。ふいに訪れた懐かしさで、節子は胸がいっぱいになる。
 彼岸と此岸は行ったり来たり。初音さんもケンジくんも、トンビさんも彼女さんも、岳人さんもゴロも。そして父も母もわたしも、皆が同じ輪の中にいるのだ。
何者かにふわりと抱きしめられた気がした。
「おーい、節っちゃん、帰るぞ」と、長治さんが呼んでいる。節子は、涙をふいて振り返った。

                     ※

 少し力を入れるとすぐに切れてしまう灯心草に悪戦苦闘をしながら、芯巻きの練習をする節子の横で、ノブさんは正月用の蠟燭に絵付けをしていた。南天と福寿草だという。
「難(ナン)を転(テン)じて福となすっていってね。縁起がいいのよ」
 ノブさんが、細筆でぽつぽつと朱色を差すと、蠟燭はみるみる華やいでくる。いかにもいいことありそうな蠟燭ですね、きっと売れますなどと話していると、店のチャイムが鳴った。
「ごめんください」といって、入ってきたのは岳人さんだった。傍らには、薄い茶色の毛足の長い大型犬が行儀よく座っている。
 岳人さんは、今はこいつと一緒ですと、犬を見ていった。犬は、岳人さんを見上げ、ふさふさとした尻尾をゆっくりと左右に振っている。
「ゴロと最後のサンポをしました。ゴロは元気だった時と何も変わりなく、このまま、ほんとに帰ってきてくれるんじゃないかと信じそうになりました。帰り道、いつもの公園を通ろうとすると、ゴロがリードを引っ張るんです。ゴロの後をついていくと、白いワンピースの若い女性が立っていて、チラシを渡されました」
 保護犬の譲渡会のチラシだった。そのチラシを受け取ると、いつの間にかゴロは消えていた。
「ゴロの導きだと思い、チラシにあった譲渡会に行き、こいつと出会いました。盲導犬をリタイアした老犬です」
 お互い、残りの人生を助け合って生きていくつもりだと岳人さんは笑った。初めて見る岳人さんの笑顔だった。
 ありがとうございましたと深々と頭を下げ、岳人さんは、新しい相棒と冬の街に出て行った。ゆっくりと同じ歩調で歩くひとりと一匹の姿が小さくなるまで、節子は見送っていた。いつの間にか、雪が降り出していた。