遠藤 由美子(えんどうゆみこ)
筒丈の着物を着せられた三つか四つの私は、小さな川沿いのあぜ道を何度もころびながら走っていた。踏み固められた道の両側には丈高い草が生い茂っていて、おぼつかない足の運びを邪魔していたのだ。追いかける祖母の声がだんだん遠くなって、もう聞こえない。
すっかり足が弱っていた祖母にとっては、「学校に行く!」と飛び出した頑是(がんぜ)無い孫の子守りは大変なことだったろう。
寺から一キロほど離れた小学校に、母はいるはずだった。
山門の石段に座って、見えなくなるまで母を見送るのが日課だったのだが、その日は何故か、置き去りにされるのがどうしても納得できなかったのかもしれない。
校門の脇(わき)に、少しひしゃげた低い柿の木があって、そこを抜けると木造の校舎が建っている。
一階の教室に母の姿があった。
私に気がついて教室を出たらしい母が、当然駆け寄ってきて抱きしめてくれると思っていたのだが、しばらくして私の前に立ったのは坊主頭の恐い教頭先生だった。
「お母さんは仕事をしているのだよ。帰りなさい。もう来てはいけないよ」
大きな手で抱き上げられて、そんな意味のことを諄諄(じゅんじゅん)と諭(さと)されたのだろうが、高いところから見下ろす校庭が、妙に広くてボンヤリと白茶けていた、という記憶しかない。
その日を境に母を追いかけることはしなくなった。
そして、学校が嫌いになった。
私の住む寺は私設の幼稚園でもあった。
子供たちがたくさん集まってオルガンが鳴ると、「家」は幻影のように遠のいて、全く別の世界が生まれた。さっきまで私の父だった人は「園長先生」になった。
自分の居場所が不確かなまま、切り替えがうまくできなくて母を追いかけたのではなかったかと、長じてから思い当たる。
学校嫌いにトドメを刺したのは、小学校一、二年の担任が母だったことだ。「先生」と言えなくて手が挙げられず、わからなかったままの算数は今もよくわからない。
校庭の柿の木はすでに無く、入学式の花飾りが掲げられることはない校舎に、「森の校舎カタクリ」の名がついて、地域の方々の憩いの場となって久しい。
「何時に帰る?何処に行く?」
あの日の私のように、母はほぼ毎朝、出かけようとする私に問いかけていた。私は十数年もの間、追いかける母の言葉を振り切って車に乗り込んだのだった。胸の奥で軋(きし)む痛みには、遠い日の母と私も、共に棲(す)んでいた。
(ハイ!ミンポーより再掲)