奥会津に吹く風~もや舟伝説 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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奥会津に吹く風~もや舟伝説 NEW

2026.07.01

遠藤 由美子(えんどうゆみこ)

 (おぼろ)なもやに包まれた夜更けは、裏山の杉木立の闇が気にかかる。京都・比叡山に、古くから語り継がれる七不思議の一つを思い出すからだ。

 かつて、人気のないその場所に、踏み入ろうとしたことがあった。

 その舟が山の峰に現れるのは、決まって霧の深い夜だという。

 谷底から舞い登ってきた霧が闇よりも濃くなると、風もないのに木々の下草がざわめき、どこからともなく細く切れ切れな女の声が響いてくる。

 女の声は、僧の名を呼んでいるらしかった。声はいくつも重なり、だんだんと近づいてくる。

 霧が、たじろぐように動きを止めたその時、深く(よど)んだ闇の中に、一(そう)の舟が浮かび上がった。

 舟べりには、夜露に濡れた髪を一すじ二すじ乱した老若幾人かの女人たちが、身じろぎもせず立ち尽くしていた。

 憂いを固く閉じ込めたいくつもの(ひとみ)が、闇の一点を凝視している。一人の女の細い手が、たまりかねたように弱々しく宙を泳いだその刹那(せつな)、舟は一瞬にして()き消え、ただ僧の名を呼ぶ切れ切れの声だけが嫋嫋(じょうじょう)と闇の向こうに遠ざかっていった。すでにこの世のものではない女人たちが、女人禁制の山に向かって(あや)しの舟を仕立て、闇を流れるもやを()いで、現世で再び逢えなかった恋人や、夫や、息子だった僧に逢いに来たのだった。

 比叡山の七不思議のひとつ「もや舟伝説」の舞台は、(てん)(だい)権現の(ほこら)近くとそっと教えてくれた方がいたが、地図にもその名は無く、比叡山を訪ねる度に探し歩いた。

 その日、谷底へ強引に誘い込むような急坂に、道に迷ったかなとためらいながらもズルズルと下ると、やがて小さな堂の(わき)に出た。しかし、侵し難い空気に押し止められたように、どうしてもその先は一歩も歩き出せなかった。あたりを見回したが、小鳥の声さえも聞こえない。

 不安に襲われて駆け戻る途中、堂守りの方に出会った。

 「行かんほうがよろし。天梯権現は、比叡山の魔所の中でも最も厳しい場所や。あの山そのものが御神体やから、めったに人が入ってはいかんところや。わしらも掃除させていただく以外はよう行かん。木の一枝も、葉のひとひらも手折ってはいかんそうや。」

 魔所とは、妖しく恐ろしい異界のものが()む場所などではなく、善事をみだりに侵そうとする俗界の魔を、厳しく拒む浄域なのだ。

 一度描かれた地図は消えた。もや舟伝説の知られざる場所は、深い霧の彼方にある。

 闇夜の小さな山寺には、裏山の杉木立の下あたりで「ギャッ、ギャッ」と鳴く、雅とは程遠いキツネの鳴き声が似つかわしい。                            

 「ハイ!ミンポー」より転載