遠藤 由美子(えんどうゆみこ)
朧なもやに包まれた夜更けは、裏山の杉木立の闇が気にかかる。京都・比叡山に、古くから語り継がれる七不思議の一つを思い出すからだ。
かつて、人気のないその場所に、踏み入ろうとしたことがあった。
その舟が山の峰に現れるのは、決まって霧の深い夜だという。
谷底から舞い登ってきた霧が闇よりも濃くなると、風もないのに木々の下草がざわめき、どこからともなく細く切れ切れな女の声が響いてくる。
女の声は、僧の名を呼んでいるらしかった。声はいくつも重なり、だんだんと近づいてくる。
霧が、たじろぐように動きを止めたその時、深く澱んだ闇の中に、一艘の舟が浮かび上がった。
舟べりには、夜露に濡れた髪を一すじ二すじ乱した老若幾人かの女人たちが、身じろぎもせず立ち尽くしていた。
憂いを固く閉じ込めたいくつもの瞳が、闇の一点を凝視している。一人の女の細い手が、たまりかねたように弱々しく宙を泳いだその刹那、舟は一瞬にして掻き消え、ただ僧の名を呼ぶ切れ切れの声だけが嫋嫋と闇の向こうに遠ざかっていった。すでにこの世のものではない女人たちが、女人禁制の山に向かって妖しの舟を仕立て、闇を流れるもやを漕いで、現世で再び逢えなかった恋人や、夫や、息子だった僧に逢いに来たのだった。
比叡山の七不思議のひとつ「もや舟伝説」の舞台は、天梯権現の祠近くとそっと教えてくれた方がいたが、地図にもその名は無く、比叡山を訪ねる度に探し歩いた。
その日、谷底へ強引に誘い込むような急坂に、道に迷ったかなとためらいながらもズルズルと下ると、やがて小さな堂の脇に出た。しかし、侵し難い空気に押し止められたように、どうしてもその先は一歩も歩き出せなかった。あたりを見回したが、小鳥の声さえも聞こえない。
不安に襲われて駆け戻る途中、堂守りの方に出会った。
「行かんほうがよろし。天梯権現は、比叡山の魔所の中でも最も厳しい場所や。あの山そのものが御神体やから、めったに人が入ってはいかんところや。わしらも掃除させていただく以外はよう行かん。木の一枝も、葉のひとひらも手折ってはいかんそうや。」
魔所とは、妖しく恐ろしい異界のものが棲む場所などではなく、善事をみだりに侵そうとする俗界の魔を、厳しく拒む浄域なのだ。
一度描かれた地図は消えた。もや舟伝説の知られざる場所は、深い霧の彼方にある。
闇夜の小さな山寺には、裏山の杉木立の下あたりで「ギャッ、ギャッ」と鳴く、雅とは程遠いキツネの鳴き声が似つかわしい。
「ハイ!ミンポー」より転載