女性登山家・多美子さん | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津に生きる

女性登山家・多美子さん NEW

2025.03.02

鈴木 サナエ(すずきさなえ)

 先日、多美子さんと知り合いの本多のおばあちゃん(98歳・只見町)と、多美子さんの話題になった。本多のおばあちゃんは、ダム建設の頃、ご夫婦で只見に越してこられた方で、多美子さんは、東京から嫁いで齋藤多美子となられた方だから、仕事の関係もあって、お互い気の許せる仲になっていったらしい。多美子さんが亡くなって久しいが、今でも本多のおばあちゃんとは、時々多美子さんの話題になり、話の度に、「あの女性(ひと)は特別だったね。」と、語り合う。
 多美子さんは、昭和4年、東京生まれの山の大先輩である。大先輩と言っても、知り合えた20数年前、すでに多美子さんは70代で、脚も弱っておられ、山からは遠のいておられた。やっと山に登り始めたばかりの私は、周りに山登りをする女性などあまりいなかったから、多美子さんとのお話はとても楽しいものだった。多美子さんは2002年に亡くなっているから、お付き合いいただいたのはわずか3~4年の短いものだったのだが、私にとっても多美子さんは「特別な女性」だった。何が特別なのか、うまく言えない。でも、だから書いておきたい、と思うのかも知れない。
 多美子さんとは一度だけ、ドライブをご一緒したことがある。とても良く晴れた秋の日、突然の私の誘いにもかかわらず、気持ちよく応えて頂いた。私の目的は第一に、三島町の「ドライブイン雪国」にお連れすることだった。多美子さんは蕎麦を召し上がらないけれど、何か別なものを食べて頂くこととして、私はとにかく、当時すでに、知る人ぞ知る蝶の専門家、ドライブインの角田さんに会って頂きたかった。他のお客が引けた後、厨房から出て来て下った角田さんは、奥の方から次々と蝶の標本函を持ってきて、多美子さんと蝶談義が始まった。多美子さんは決して知ったかぶりなどしないのだが、角田さんにはその知識の豊富さはすぐに解かったのだろう。お二人とも立ったまま、実に楽しそうに長い事、話しておられた。後日、角田さんの本の中に「多美子さんに、要害山でギフチョウを見つけた、と教えてもらった」の一文が載っている。
 次に「生活工芸館」を目指して車を走らせたが、周囲の紅葉のあまりの素晴らしさに橋の上で車を止めることにした。周りを見渡し、橋の上から川面を見下ろした時、多美子さんは足を踏みならし、まるで少女のように声を上げて、興奮されていた。遥かに下の川面には、赤色に染まった落ち葉がゆったりと流れていた。
 生活工芸館と向かい合って、「ふるさと交流センター 山びこ」がある。ここには見るべき当てもなかったのだが、入ると音楽が聴こえてきた。顔見知りだった受付のNさんが「明日のジャズコンサートのリハーサルをやっているので、よかったらどうぞ中に入ってお聴きください」と言って下さったので、幸運なことに私達はリハーサルの音を聴くことができた。しばらく聴き入っていたが、立ちっぱなしだし、あまり趣味に合わなかったら悪いかなと思い、そっとホールを出た。そこで多美子さんの一言。
「私、ああいうのダメなのよねえ」。
 ああやっぱり、悪かったかなあ、申し訳なかったなあ、と思う間もなく多美子さん、
「私、ああいうの聴くと自然に身体が動くのよ」。
 と、おっしゃる。今まで、何度も多美子さんのお宅にお邪魔しても、一度も音楽らしい音を聴いたことがなかったし、話題にもならなかった。この日、全く新たな、音楽好きの多美子さんの一面に出会ったのだった。
 ようやく、二つ目の目的の「生活工芸館」に向かった。受付で「どちらからいらっしゃいましたか」と尋ねられ、「只見」、と答えると、「只見はここより本場だべ。」と、言われてしまった。ブドウ蔓やアケビ蔓等の雪国の冬の手仕事の製品の数々、一階から二階へと、広い展示場をゆっくり見て回った。最後にヒロロ細工のコーナで、私は手前に手ごろなバッグを見つけ、手に入れようとしたら、多美子さんは奥に同じ形のもっと素敵なバッグを見つけられ、買い求められた。私はすっかり意気消沈してしまって、自分のものを買う気が失せてしまった。このヒロロのバッグは、多美子さんが亡くなったのち、ご主人のご好意で私の手元にまわってきた。

 多美子さんは若い頃、山岳会が華やかだった頃の東京で、日本山岳会の会員であり、また女性メンバーだけの山岳会「エーデルワイスクラブ」に所属していた。このクラブは1965年、会の創立10周年記念に南米ペルーのアンデス山脈に遠征し、多美子さんもその一員であったと聞いた。残念ながら登った山の名前は忘れてしまったが、円がまだ360円だったこの時代、振袖を身に着けて大使館に挨拶に行ったと、今では信じがたいような、もう一度確認してみたいような話も聞いた。
 火事になる前の西穂山荘で働いたこともあり、後々は尾瀬の第二長蔵小屋で働き、そこで年下のご主人と出会い、結婚された。結婚後、お二人は只見に居を構え、当時、安全で、安くて楽しい旅を求める若者たちに大人気の「ユースホステル」を始められた。この頃のことを多美子さんは「貧乏が楽しかったわ。」と、懐かしそうにおっしゃっていた。気楽で温かいお二人の人柄を添って、山岳会関係者は勿論、多くの若い人たちが集い、賑わった。ユースホステルを閉じ、多美子さんが亡くなった今でも、ここを訪れる当時のファンがいると聞いている。
 多美子さんと山の話をしていると、「串田孫一」とか「深田久弥」の話になるのは自然の成り行きだった。本の世界でしか知らない私に、多美子さんは、なんと、お二方からのハガキや手紙を見せて下さった。どちらも何かの礼状のようだった。この時多美子さんから頂いた、深田久弥の「わが愛する山々」の本には、深田久弥一行は、新潟県側から浅草岳を目指したが、悪天候で登れなかった時の様子や、只見線のことが書かれている。また、太い万年筆で書かれた串田孫一の骨太の文字も印象に残っている。
 多美子さんにはギフチョウのことも教えていただいたが、国蝶である「オオムラサキ」の標本を頂いたことがある。小さなお菓子箱に入れられていた「オオムラサキ」は蝶としてはとても大きく、美しい紫色の翅を広げ、丹念にピンでとめてあり、防虫剤が入れてあった。多美子さんの家は川の近くにあり、付近の雑木林にはオオムラサキの幼虫が食べるエノキの樹もあって、オオムラサキがよく翔んでいたのだそうだ。そのエノキが道路拡張のため伐られてしまった。
「もう、いなくなってしまったのよ。」と、声高に誰を責めるでもなく、ちょっと寂しそうにしておられた。
 私は大事なその標本を、しばらくは時々出してきて眺めていたのだが、数年前、しばらくぶりで若い虫博士に見せようと開けてみたら、中は2本の脚だけが残っているだけで、あとかたもなかった。何かの虫に食われてしまったのだった。全く迂闊だったが、そもそも標本のことなど何も知らない私だったのが悔やまれる。申し訳のないことをしてしまった。

 多美子さんはいつも笑顔でいらっしゃるわけでもないが、苛立った顔は見たこともなかった。いつだって、誰とでも同じように、ゆったりと穏やかに接してくださっていた。言葉の端々や、ちょっとした仕草になんとも言えないような気品があった。思い出も尽きないが、語りつくすことなど、到底できそうにない。それにしても、私の記憶の中に多美子さんとの「特別なこと」などは何ひとつない。多美子さんと本多のおばあちゃんとの会話は、私との会話とは全く別だったに違いない。それでも同じように「特別な女性」として、いつまでも記憶に残る多美子さんの魅力はいったい何なんだろうか?