タグラ(田子倉)言葉 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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タグラ(田子倉)言葉

2025.02.15

鈴木 サナエ(すずきさなえ)

<カナックリ>                                  
 時は昭和30年(1955年)。村は、国による戦後復興を目指す田子倉ダムの建設が始まったばかりで、「会社」と言えば、電源開発㈱を指し、その会社に勤める人の子供は同じ形の建物がずらっと並んだ社宅に住んでいたので、「社宅の子」と呼ばれていた。小学校一年生になった時にも、私のクラスには「社宅の子」が何人かいた。
 ある冬の日の「なぞなぞ大会」でのこと。
  地元の子  「家の廻りの針千本、な~んだ?」
  社宅の子  「ツララ!」
  地元の子  「違います!」
  地元の子  「カナックリ!」
  地元の子  「ご名答!」
 この後、先生がどんなふうに説明して下さったかは、すっかり忘れてしまったけれど、私は今でもカナックリを見るたび、愉快な、このやりとりを思い出す。当時はどの家の屋根からも太い大きなカナックリがぶら下がっていた。下まで届いているのも珍しくなかったし、茅葺の屋根からは、茅の色が黄色く滲んだ、あまり清潔とは見えないカナックリもぶら下がっていた。家の廻りだけでなく、道脇など何処でもいくらでもあった。暖かな日差しが身体を包み込むようになると、私達はそれをぶっかいて、口にほおばった。勿論、雪だって平気で食べながら遊んでいた。
 一昨年の冬、小学校の読み聞かせの折りに、子供たちに「カナックリって知ってるか?」と、問うてみたが、誰もこの言葉を知らなかった。カナックリそのものを見る機会があまりなくなってしまったから、無理もない話だけれど、ツララよりもよっぽど語呂が良く、響きもピッタリで解かりやすい。カナックリの言葉を伝えていきたい。

<ヤレンギョ>
 私の両親が結婚する頃だから、昭和20年代まで、あるいは30年代頃までだろうか、高度成長と言われる前までだったかとも思う。当時の結婚式は冬の12月から3月までに執り行われたと聞く。田畑が忙しい時期は避けられたのだ。
 その頃、両親は結婚式を「祝言」(シュウゲン)、「ヤレンギョ」と言っていた。祝言は迎える方の祝い事、ヤレンギョは送り出す方の祝い事だった。祝言は文字通り祝い事なのだが、ヤレンギョとは、「嫁に遣る」とも言っていたから、ヤレンギョのヤは「遣」なのだろう。そしてヤライギョーとも言う地域があるのでライは「来」かもしれない。いずれにせよ、その下の「ギョ」の言葉を含めて、今となってはなんとも、ほとんど聞くことのない摩訶不思議な言葉になってしまった。
 祝言、ヤレンギョまでに「扇納め」「日定め」という儀式もあって、それぞれ、仲人が両家の間を取り持ち、本家筋などの親戚に披露し、祝杯を挙げた。

扇納め/縁組が整うと、双方が扇を用意して、仲人が預かり、交換した。この儀式で正式な婚約成立となる。

日定め/結婚式の日取りは、仲人を通して決めてあり、実質的には「結納」に当たる。昭和40年代には、結納の品の内、昆布やスルメなどの入ったセットが商店に売られていて、蛇の目傘も目録にあった。他に親族書等があり、まだ、結納金を準備する家は少なく、留袖一式と色無地の着物等、髪結い料としての少しの現金などが収められた。婚約指輪もまだ取り交わす人は少なく、お返しとしては、袴料として現金が収められたのが多かったと聞く。

 只見では自宅や旅館で執り行われていた祝言が、昭和40年代に大きな公共の建物ができ、公民館結婚式が普通に行われるようになった。「祝言」「ヤレンギョ」だけでなく、「テーカタ」(亭主方)「テカケダシ」(男の子と女の子が正装し、三々九度の酒をつぐ役割を担っていた)の言葉も聞かれなくなってしまった。
 下の娘が結婚した20年余り前、よそで結婚式を挙げたのだが、高齢な祖父母は出席できなかったので、小さいころからお世話になった隣組や親戚の人たちも招いて、自宅で簡単に祝い事をやった。それでも、紋付き袴の新郎、華やかな留袖姿の新婦、「テカケダシ」は親戚から厳かな日にふさわしい道具一式を借りて、孫が照れながら担った。「祝言」とも「ヤレンギョ」とも言えないような形だったが、それを見た祖父母は目を細めてくれていた。
 今思うと、カタカナ言葉が溢れて、古いしきたりも古い言葉も、どんどん消えていくことへの、私達のささやかな抵抗と、楽しみだったように思う。

<オジゴンボ>
 この言葉もまた、不思議な言葉で、過去に一度だけ、私の「日定め」の日に夫の章一の伯父さんが使っていたのを聞いたことがある。もう50年以上も前のことになる。
 祝いの席なので、私の伯父さんと調子よく言葉を交わしていた。どうやら、次男坊の自分を卑下して言っているようなのだが、あまり何回も言うので、記憶に残っている。伯父さんは明治40年代の生まれで、田子倉出身だった。旅館業をやっていて、裕福だったし、町の議員でもあったので卑下することなど何もないのだが、今では考えられないことに、昔は長男とその下の兄弟の扱いは大変な差だったのだと思う。
 今回、周りの人に聞いてみたら、この言葉を知らない人が殆どで、二人だけが聞いたことがあるが、使ったことはないという。二人は田子倉出身の人だった。そのうちの一人の90代の叔母さんは、嫁に来て、タグラ言葉(田子倉言葉)を使うと、少し笑われたそうだ。
 昭和36年、蒲生分校から来た同級生の言葉は、少しアクセントが違って聞こえた。昔は、近隣であっても地域によっての言葉の違いは、今より、ずっと大きかったのだろう。
 『会津只見の方言集』の本にも載っていない「オジゴンボ」は、タグラ言葉なのだろうか。失われた田子倉集落のタグラ言葉には、他にどんな言葉があったのだろうか。