菊地 悦子(きくちえつこ)
凍りつく雪の音が聴こえたような気がして、コウタは夜中に何べんか目が覚めた。四度目に起きたときだった。
「コウタ、そろそろ行くよ」
部屋の隅に置いてあるミカン箱から甲高い声がした。夜明け前の暗がりの中、真っ白な塊が、ふわふわ光っている。
ひと月ほど前、コウタのじいさんが、「ほれ」といってコウタに仔ウサギをくれた。川向うの宿屋兼雑貨屋で、通いの行商が、主人に小間物と一緒に仔ウサギを買わないかと持ちかけているところに、たまたまじいさんが行き会ったのだ。宿屋の主人はお人よしで通っていて、行商たちが持ち込む雑多なものを、たいていは文句もいわず、「んじゃ、置いてってもらうべか」と引き受けるのだが、今にも死にそうな、やせっぽちの仔ウサギにはさすがに難色を示した。その様子を見ていたじいさんが、正月からずっと元気のないコウタの土産にと思いついて、なけなしの小遣いでもらい受けたのだった。仔ウサギは右の耳が左の耳よりだいぶ短かった。もしかすると、耳がよく聞こえず、そのために親とはぐれてしまったのかもしれなかった。
コウタの父ちゃんは、コウタがまだ小学校に上がる前から、東京に出稼ぎに出ている。コウタが一年になると、具合を悪くして、寝たり起きたりしていた母ちゃんが死んだ。それからはコウタとじいちゃんとばあちゃんの三人暮らしになった。盆と暮れには父ちゃんが土産を持って帰ってくる。この前の盆には学習雑誌を買ってきてくれた。付録に組み立て式の東京タワーがついている超豪華版だ。コウタは父ちゃんと三日かけて、東京タワーを完成させた。コウタより背の高い東京タワーは、紙製ではあるけれど、色も鮮やかでとても精巧にできていて、エレベーターまでついている。朝、仏壇に線香をあげるたびに、脇にそびえる東京タワーを見上げて、コウタは少し元気になるのだ。東京はすごい。高速道路や新しいビルもどんどん出来ているという。父ちゃんの話を、コウタはいつもどきどきしながら聞く。そして自分もいつか東京で働きたいと思う。「大人になったら」と父ちゃんはいうが、大人になるのがいつなのか、コウタにはわからない。きっとずいぶんと先は長いのだろう。気が遠くなるほど長いのだろう。
父ちゃんは、この正月、いくら待っても帰ってこなかった。コウタの坊主頭をなで、「次は年末な」といって、東京に戻っていったきり、七草が過ぎても、サイノカミが過ぎても、大寒が過ぎても、ハガキの一枚も届かない。同じ村の出稼ぎ仲間は、盆明けから別な現場になったからわからないという。
ちんば耳でやせっぽっちの仔ウサギは、藁を敷いたミカン箱の隅で、毛糸玉のようにじいっとうずくまっていた。じいちゃんが期待したほど、コウタが喜んだわけではない。ウサギなど飼ったことがなかったし、飼いたいと思ったこともない。どうやって育てていいのかもわからなかったが、水と、しなびた大根の葉っぱを少しと、干し柿のヘタをミカン箱の中に入れてやると、仔ウサギはもぞもぞ動いて水を少し飲み、大根の葉っぱに鼻先を近づけ、ふいにコウタを見上げた。
「かた雪になるまでいっから」
甲高い早口だった。あんまり驚いて、身動きもできずにいるコウタに、仔ウサギはもう一度いった。
「かた雪になるまでいっから」
仔ウサギがものをいったのはそれきりだった。ひと月ほど経つうちに、やせっぽっちだった仔ウサギも一回りほど大きくなった。どんぐりをカリカリかじっているのを見ながら、コウタは頭をふりながら思ったのだ。
「あれは、たぶん錯覚だ。聞き間違えだ。ウサギがしゃべるなんて、そんなことあるわけない」
それでも、かた雪になるまでという言葉が頭から離れない。三月になり、晴れの日が二、三日も続くと、コウタはもう落ち着かないのだ。だから、仔ウサギが再びしゃべったときには、驚くよりも、むしろ腑に落ちてほっとした。
「コウタもあいべ!」
そういうと、仔ウサギは、意外なほど軽々とミカン箱を飛び越えたので、コウタは少し感心し、あわてて着替え、アノラックと手袋を身につけた。
藍色の空にだいぶ膨んできた月が青白く浮かび、コウタと仔ウサギの姿をぼんやりと照らしていた。仔ウサギは凍った雪の上を、いかにも楽しそうに、右へ左へ、ジグザグを描きながら跳ねていく。コウタがザクザク雪を踏みながら仔ウサギを追う。ここ数日の陽気で溶けた雪が、深夜に冷えて締まり、いい塩梅になったかた雪が、どこもかしこも平らにつなげていた。仔ウサギもコウタも白い息を吐きながら、トントン、ザクザク歩いていく。
「ねぇ、どこへ行くの」
コウタの質問には答えず、仔ウサギはどんどんと雪をわたる。東の山の向こうから、藍色を押し上げるように朱色がわずかにのぞき始めた。感覚のなくなった耳を、手袋をはめた手でゴシゴシこすりながら、コウタは空を見上げ、ほおっとため息をついた。仔ウサギも立ち止まり、長いほうの耳をゆっくりと動かしている。
朱に染まった空が横に伸びるにつれ、山々の稜線が眠りから覚めるように、黒く、くっきりと立ち上がってきた。やがて、一筋の光がきらりと輝いたかと思うと、山なみをまたいで、お日様が姿を現した。
コウタと仔ウサギは、鎮守の杜の麓に立っていた。山おろしの風のせいで、冬中吹雪く場所なのだが、風はすっかり止んで、あたり一面、しんとした雪がいっせいに日の光をはじいている。仔ウサギがぴょんと跳ね、長いほうの耳を忙しく動かしながら、杜の方を見上げた。杜に続く階段は、分厚く雪でおおわれて、その両側に、杉の木が兵隊のように整列している。今日明日あたり、勇気あるこどもらが、そりで一気に滑りおりて得意がるにちがいない。あの坂は、下から見るよりずっと急なのを、コウタは知っている。足の裏がぞくぞくした。そのとき、なにかが、なにか小さいものが、坂の上から駆け下りてくるような気がした。仔ウサギがまた、ぴょんと跳ねる。
一匹のウサギが、ときおり注意深そうに立ち止まっては、あたりを伺っている。白いウサギは雪の光の中にいて、少しでも目を離すと、たちまち見えなくなってしまいそうだ。コウタは、目を細めてまぶしさをこらえた。仔ウサギはたまらないように、キュンと鳴いて、坂めがけて一目散に跳ねていった。一度だけ立ち止まり、コウタに何かをいったようだったが、それはコウタの思い違いだったかもしれない。
かた雪わたりで家に帰ると、ばあちゃんが気をもんだ風においでおいでをしていた。
「コウタ、どこいってただ。心配したぞ。父ちゃんな、今日帰ってくんだって」