鈴木 サナエ(すずきさなえ)
<団子さし>
子供が小さかった頃だから、昭和50年代の頃、我が家のお正月のハイライトは何と言っても、横座の後ろの大黒柱に据えられた大きな「団子さしの木」だった。団子さしを「小正月」の行事としているところも多いと聞いているが、私の知る限りの只見では、何処の家でも、暮れの30日に他の「福で餅(お供え餅)」と一緒に作って飾る。
まず、舅が秋のうちに用意しておいた綺麗な赤い枝のミズノキ(ミズキ)の芽を切り、形よく剪定し、柱にしっかり結わえ付ける。姑が団子粉を煉る。白い粉に食紅等を使って、赤、黄色、緑を練りこんだ団子粉をそれぞれに分けておく。緑はキュウリやカボチャ、黄色はトウミギやウグイス、赤はタイ、等々娘たちも大はしゃぎで思い思いのものを形作っていた。残った団子粉は団子に丸める。これらの何を作ってもセンスが良く、上手な姑だったけれど、仏壇用に作られた、黄色の米俵2つに赤い巾着が載せられているのは、他では見たことのない傑作で、仏壇に一年間揚げも(揚げ申す→お供えする)されてあった。形作られた団子は大鍋で茹で上げ、ザルに取って冷まし、ミズノキにバランスよく挿して飾った。五穀豊穣や無病息災の願いが込められた団子が茶の間に飾られると、華やかで、いっぺんに茶の間が明るくなり、正月の準備が整ったように感じられた。
娘たちが大きくなってからは、柱に結わえることなく、大きな花瓶に飾られ、そしていつの間にかそれも消えて、飾られなくなってから久しい。思い出しながら、来年は小さくても良いから、「団子さし」を復活させたいと思っている。
<火の用心>
正月2日、玄関に「おめでとうございます。」と、元気な声が聞こえると、それは「火の用心」と墨書した半紙を持って、両親に連れられた子供の声だ。「火の用心」とは数え年6歳の子供が、半紙一枚に筆を使って、大きく「火の用心」と書き、名前も添えて、自分の家に貼って飾り、隣近所、親戚、などに配って歩く。いただいた方は独創的なその書を、「上手に書けたな」と褒めたたえ、ご祝儀袋のお小遣いやお菓子を渡し、長押の上の壁などに一年間貼って置く。昔は茅葺の屋根などは特に火災が多かったのだろう。六才は無災(ムサイ)に繋がり、火伏の行事になっている。
戦後生まれの私は、白髪講(シラガミッコ)、天神講(テンジンコウ)等の昔からの行事を経験することなく過ごしてしまった。そんな状況の中で、「火の用心」だけは遠い昔、私も書いて、隣近所から、お祝いに10円か20円、縁起物のスルメ(寿留女)などを頂いた記憶がある。娘たちも孫たちも正月の書初めの日、初めて筆を使って結構上手に、喜んで書いていた。地区では今では子供もすっかり少なくなって寂しい限りだが、お正月の喜びに満ちた子供達の声がいつまでも響いていきますように!
<お参り>
正月3日、お昼時間、やっと瀧神社へお参りに行くことができた。駅の脇を通り抜け、要害山の麓へ真っ白な道が踏み固められている。小さめの赤い鳥居と鬱蒼とした杉林を目指して、珍しくすっきりと晴れた青空の中を進んで行く。小さな子供二人の親子連れとすれ違って新年のご挨拶、あとは誰もいない。60年も昔、この同じ道を、行列をなして歩いたことなどが、頭をよぎる。早めにお風呂に入り、綺麗な洋服に着替え、年神様に手を合わせ、年に一度の年越しのおおごっつぉ(大ご馳走)を食べてから紅白歌合戦を見、年越しと同時に家を出た懐かしい記憶は、今も色あせてない。
あの頃、私はいったい何を祈ったのだろうか。今年はまた、何を祈ろうとしているのだろうか。月並みな事以外に何も思い浮かばない自分に苦笑いしながら、来た道をゆっくり引き返した。
今年も、また新しい一年が始まる。