「命の種もみ」~ 河井継之助に思う | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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「命の種もみ」~ 河井継之助に思う

2025.01.15

鈴木 サナエ(すずきさなえ)
  

 長岡藩家老「河井継之助」は、戊辰戦争で長岡での戦いに敗れ、大怪我の体で険しい八十里峠を越え、只見に辿り着いた。
 そこで会津に滞在中の幕府軍から派遣された松本良順(後の初代陸軍軍医総監)の治療を受け、説得されて会津に向かう途中、塩沢の医師・矢沢宅で亡くなったのが、1868年(慶応4年)8月16日。町ではこの日、「河井継之助墓前祭」と「河井継之助を語る会」が毎年行われている。
 継之助の遺体は遺言通り、荼毘に付され、遺骨は当初、会津若松の寺に埋葬されたが、只見では村民によって細かい骨が拾い集められ、医王寺の墓地に手厚く埋葬された。賊軍ということで、当時は目印のように大きな石が置かれているだけだったというが、現在では長岡の篤志家によって、立派なお墓が建立されてあり、毎年このお墓の前で墓前祭が執り行われる。
 継之助を顕彰する「語る会」もほぼ同様のメンバーで、場所を変え、今年も長岡から「牧野のお殿様」始め、長岡と只見からの参列者が、それぞれに継之助に対する熱い思いを語り合った。なんと、初めて参加の私も最後に名指しされ、語ることになった。突然のこととてうまくは言えなかったが、私なりの日頃感じていた継之助を語ることができた気がするので、綴ってみたい。

 <命の種もみ>
 河井継之助のことは司馬遼太郎の「峠」でも読んではいたが、単なる面白い小説であって、只見で亡くなった、と言ってもそれほど身近に感じることはなかった。
 ところが15年近く前だろうか、只見小学校の学習発表会を観る機会があり、6年生の演目が「命の種もみ」というものだった。その内容は、戊辰戦争で敗れた長岡藩の人たちが、過酷な峠を越えて、大勢(その数2万5000人とも言われる)只見に押し寄せたため、山間の小さな寒村は大混乱に陥り、深刻な食糧難に至った。急遽、昭和の野尻から派遣されていた会津藩の代官丹羽族(にわ やから)は、八方手を尽くしたが間に合わず、この状況に責任をとり、宿舎となった民家で切腹して果てた。これにいたく心を揺り起こされた只見の農民達は、来年のために取り置かなければならない大切な種もみをも差し出して、長岡藩の人々の命を救った、という内容だった。
 当時、会津藩同様に賊軍と呼ばれた長岡藩の人々を、西軍から匿った事実はあまり語られてこなかったという。とは言え、自分がこんなに素晴らしいエピソードを学習発表会で観るまで知らなかった、ということは衝撃だった。この歴史の事実を知ったことで、遅まきながら、私はようやく河井継之助を身近に感じることができた。
 語る会では、ある民家の方が長岡藩の人からお礼に頂いたという上質なトルコブルーっぽい色合いの、なんとも素敵な刺繍の紋入りの着物も披露された。

 着物を頂いた事実が、150年以上も経った今の今まで表に出ないで、タンスの底に眠っていたのだから驚きだ。只見の人たちにさえあまり知られていない「命の種もみ」の話や、これらのことを永く語り継いでいきたいと思っている。

<塩沢の医師 矢沢宗益の子孫、矢沢大二さんのお話>
 只見町にある「河井継之助記念館」は平成5年に再建され、中には「河井継之助終焉の間」がそっくり移築されてある。それ以前の「河井継之助記念館」が今の「山塩資料館」の場所に開館されてはいたが、そこに終焉の間はなく、大二さんの父親である伊織さんが、ダム建設によって水没を免れるため、大変な苦労の末、矢沢家のお宅の端っこに自費で移築されていたのだった。
 娘が小学校の高学年だったから昭和60年前後、娘の夏休みの宿題の付き合いで只見の名所旧跡を巡った、その時のことである。記念館を一通り見て、何気なく矢沢家の前を通ったら、継之助の命日も近いこともあってか、表の方に大二さんがいらっしゃって、祭壇がしつらえてあり、奥には終焉当時の品々が陳列してあった。

 私たちは香典袋も用意してなかった不調法を詫び、お線香を上げさせていただいた。そしてなぜそこまでして、終焉の間を守って下さっているのか、熱っぽく答えて下さった。
 当時、長岡藩の家老とはいえ、この地方に継之助を知る人はいなかっただろうし、矢沢家の人々も例外ではなかっただろう。しかし継之助が数日滞在している間、傷の痛みも相当だったはずなのに「痛い」等の弱音は決して吐かず、あまりの立派な態度に宗益医師は「この方はとても偉大な人で、後々きっと世に出る方だから、遺品をはじめ、この部屋を大事に守るように」との、言葉を遺された。矢沢家の方々は5代にわたり、それをずっと守ってこられたというお話だった。
 継之助は勿論、歴史に残る立派な人物だが、それを見通した宗益医師の眼力、そして世の中の動向に振り回されることなく、その遺言通り、継之助終焉の間をずっと守り通してこられた矢沢家の方々の並々ならぬ強い意志に、深く感じ入ることができた貴重な時間となった。
 司馬遼太郎はとてもよく取材する人だったというが、「峠」を毎日新聞に連載中は只見を訪れていないという。連載中に只見を取材し、子孫である大二さんと巡り合っていたなら、継之助の最後の日々がもっともっとリアルに膨らんでいただろうと、残念でならない。

<白い絹の刺繍の布団>
 最初の「河井継之助記念館」が開館した当時、私は町役場でアルバイトをしていて、オープンセレモニーのお手伝いに駆り出された。そこに陳列されていて私の目を引いたのが、綺麗に花柄が刺繍された白い絹の小さめの掛け布団だった。聞けばお姫様の布団で、その他の調度品と共に、主に当時の名主の新国家からの借り物で、後々返さなければならないということだった。
 後年、私はその布団の在りかを新国家の当主に聞いてみたが、牧野家に使って頂いた布団数枚は残っているが、白い絹の布団はない、ということだった。さて あの布団は今どこにあるのだろうか? こんな私なりの河井継之助にまつわる三つのことを話させて頂いた。

 余談になるが、私の実家の父は戦争から帰り、田ノ口の鈴木本家から分家した新宅の後を継いだ。父の先代の鈴木徳次郎という人は昭和21年に亡くなっているが、子がなく、父が後を継ぐことになったのだった。徳次郎は、会津藩から派遣され、責任をとって自害した丹羽族(にわ やから)が駐留した鈴木家の当主、平六の次男にあたる。実家には紋付の着物姿の徳次郎の遺影がにこやかに私達を見下ろしていた。
 こんなふうに只見の人々を掘り起こせば、いろいろな形で継之助と関わっていると思うと、150年以上も前の戊辰戦争が身近に感じられてくる。