【きかんぼサキ第2部】暮らしを彩る芸事 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【きかんぼサキ第2部】暮らしを彩る芸事

2024.12.15

渡辺 紀子(わたなべのりこ)

 山あいにひっそり佇むひなびた温泉宿。こんな表現がしっくりくる場所だった。ところが、時に全く違う印象の場に変わることがあった。それは同じ村の坂内宗市さん(92歳)の、こんな一言から見えてきたことだった。
「恵比寿屋の由松じぃはうんと歌の上手な人でなぁ。何とも言えねぇかすれた味のある声だった。今でも忘れられねぇのは、由松じぃが歌った“キノコづくし”って歌。これはなかなか難しい歌で、村でこれ上手く歌える人は三人しかいなかった。キノコの名前をいくつも入れたいい歌で、由松じぃの歌ってんのカセットテープにとってあんだぞ」と。歌が得意な祖父だったとは、初耳だった。

 当時、人前で歌を歌う機会は少なくなかった。それは、冠婚葬祭に限らず、人が集う機会が様々にあったから。山の神講・古峰ヶ原講・飯豊講・観音講・御八日講・秋葉講といった参詣にまつわる集まり、おぼやきといった子供の誕生を祝う集まり、初老・還暦といった歳祝いの集まり、祭り・さなぶり・きのこ山といった季節の集まり、家の上棟を祝う集まり等々、折々に人々は集っていた。そこでは酒を酌み交わし、楽しいひとときを過ごす。そしてカラオケも無い時代のこと、手拍子での歌や踊りが必ず繰り広げられる。歌を披露する場面は、今とは比べものにならないほどあった時代だった。そして盆踊りといえば、村ではおなじみののど自慢の人たちが、踊りながら掛け合いに歌を歌うものだった。
「歌」の一つも歌えねぇようでは恥。歌も歌えねぇなら酒でも飲め!なんて言いあうもんだっけ」。
 宗市さんはそんなことも語っていた。

 歌好きな舅は、時折民謡の稽古に旅館の部屋を貸していたことがあったという。昭和40年代頃になると、玉梨・八町では会津本郷町(現在の会津美里町)から先生を招いていた。村の中の歌好きな人は勿論、その人たちにつられて習いに来ていた人も多かったという。サキノも特に民謡に興味があった訳ではないが、家の中で耳にする機会が出てくると、知らず知らず聴くことになる。そうしていつのまにか、その賑わいの片隅にいることとなった。時折三味線の音とともに、男女入り混じった歌声が鳴り響く。課題曲を習った次の回では、生徒たちが次々に先生に稽古をつけてもらうのだが、その人数の多さからサキノが皆の前で歌い習うことは一度も無かったようだ。
「なにほど一杯いんだも、こっちまでなんて回ってこねぇわい。したから余計気楽で、たぁだそれ聴いてんのは楽しかったぞ」。
 村の様々な面々が集い歌う様子は、その上手い下手だけでなく、それぞれの個性までも垣間見られて楽しかったのだろう。
 同じ頃、サキノは近くの村の同業の人から三味線の稽古も誘われ、付き合いで通い始めたという。
「そっちは先生も本格的な人でねぇし、たった5人くれぇしかいねぇだ。つまんねぇなぁと思ってたら、やっぱ自然とすぐ終わっちまったわい」。
 この盛り上がりに、昭和47年2月玉梨・八町の民謡会が結成される。その結成式が旅館で行われたのだが、総勢100人を超す人で座敷は入りきれない程だったという。まさに一大ブームだったのだろう。山あいのひなびた宿には、このように人で溢れかえるような場面もあった。こうしたブームはこの地区だけのことではなかったようだ。
「本名は〇〇先生、小栗山は〇〇先生なんて、あっちもこっちも先生が来て教えてたのや。部落対抗のように競ってやってるもんだっけ」。

 民謡などに始まり、芸達者な人の中には、玉梨神楽保存会などといった会を作るもの、万歳衆といった仲間を作るもの等、それぞれに得意な芸を磨き披露していたらしい。家を建てる際の上棟式に行う『やだて万歳』、講のような際に餅をつく時の『餅つき歌』等、目出度い場を盛り上げる名人がいたという。太鼓、歌、おかめ、ひょっとこ…こうした芸があちらこちらで目にすることの出来る時代だった。これら地元の芸達者な人たちの他に、他所から来る神楽・万歳もあり、当時の生き生きとした賑わいが見えてくるようだ。

 サキノは日々の仕事の苦労の合間に、こうした人々と接する時間があった。楽しそうに好きなことに興じる人たちを見て、サキノがつられないはずがない。その非日常的なひとときに、心躍らせていたことだろう。歌や踊りという世界が、まるでオアシスのように束の間サキノの心を潤してくれていたのかもしれない。