渡辺 紀子(わたなべのりこ)
サキノが就職した昭和35年は、横田鉱山の全盛の頃だった。この鉱山からは銅、亜鉛、鉛、バライトが採掘されていた。全国の鉱山を渡ってあるく鉱員が沢山いて、青森や秋田から来た人たちが多かったという。こうした各地にある鉱山の労働組合の中でも、横田鉱山の組合は強いことで有名だった。東北のみならず全国の大会でも名の知れた組織だったという。
そこに入社したのが、高校を出たばかりで農家しか知らぬサキノだった。そして組合事務所にいる女性はサキノ一人だけだったという。入るや否や業務に忙殺されたが、負けじと、サキノも仕事を覚えることに必死だったようだ。
事務所の中で静かに時が流れる日はほとんど無かったという。常に討論や口論が繰り返され、日々新しい情報に更新される。サキノは上司のまとめた文章を書き写し、ガリ版を刷る。刷り上がると事務所を飛び出し、選鉱課長と採鉱課長に鉱員全員へのプリントを渡す。日々最新情報を伝達するのだ。採鉱課長は坑道の入口にいた。坑内の緊迫した気配を感じながら伝達に飛び回る毎日だった。
また、事務所の上司である委員長、副委員長は出掛ける機会も多く留守がちだったが、一人事務所を守り、来客対応や電話対応もサキノの仕事だった。
横田鉱山の組合が、この町初の労働組合だった。当時は役場にも職員組合しかなく、メーデーにぞろぞろ歩く様子やストライキなど、誰もが初めて見る光景だった。ストライキは毎年行われ、3カ月にも及んだ年もあったという。
「静かに暮らしてた村に、いきなり色んな人が入って騒がしくなった。飲み屋、食堂、パチンコ屋なんて出来てな。穴に入って働いてる人たちは危険と隣り合わせだから、酒でも飲まないとやってられねぇって飲んで喧嘩して…村の人たちは最初は嫌ってたよ」
と、ある方が語って下さった。
かつてのサキノの上司だった方も、「夜になっと、とろへつ(しょっちゅう)呼び出されて、職員同士や夫婦やらの喧嘩の仲裁や!」と。
ダム工事、そして次は鉱山事業と、村を一変させる激動の時代に、サキノは期せずして、またも混沌とした環境を垣間見ることとなった。
「会社の総務課長は東大出の人でなぁ。馬鹿にしてかかってきたから、『東大出たなんて、なに一丁前なこと言ってんだ!ピント狂ったこと言ってねぇで、もうちっと考えてしゃべれ!』って俺も食って掛かったわい」と、元の上司が振り返る。こんな激しいやり取りが毎日目の前で起こっていた。
サキノは会社も労働組合の意味も知らず入社してしまった。どんな仕事ぶりだったのだろうか。
「うちの組合は他から文句を言われることが全然無かった。それはサキノが逐一記録を取っててくれたから。それだけは大したもんだった」と、元上司は振り返る。
録音機も無い時代、話し合いや交渉の記録を残しておかないと、その議論がまた一からやり直しになる可能性もある。激しい議論の中でも、冷静に淡々と記録していたようだ。罵声も怒声も聞きなれているサキノにとって、激しい言葉の応酬が業務の妨げになることはなかった。これはひとえに、本名での日々の賜物だろう。動じることもなく処理するところが重宝だったのかもしれない。
もう一つだけ重宝がられたことがある。実は横田でもダンスパーティーは時折開かれていた。坑内で働く坑夫の人ではなく、鉱山の会社の役職の人たちが参加していたという。
サキノは、「ダンスは本名の変電所の人たちの方が本式だったな。そこでみっちりやってっから、横田でなんかスイスイや!」と、誇らし気に語る。何でも踊れて重宝がられたらしい。得意満面に踊る姿が目に浮かぶ。
よそ者の侵入を快く思わなかった村に、ある変化が起きてくる。鉱山の労使交渉の結果が、役場職員や商店等のパートの人の賃金、はたまた年金にも影響を及ぼす。それが分かってきた頃から
「にしゃだれ(貴方たち)頑張ってくれっと、役場の給料も年金も上がるみてぇだから、頑張ってな!」
そんな声が増えてきた。このストライキ運動は他人ごとではないとなったのだろう。
近隣町村では、金山町が唯一組合活動を行っていたのだという。これは横田鉱山あっての歴史といえる。あの時代にあの場所でしか出来ない経験に、サキノは
「組合なんてよく分かんなかったけど、たぁだ事務やってるより面白かったぞ」と。
ところが、人生最初で最後の会社員生活は、僅か2年で幕を閉じることとなる。
ある日突然舞い込んだ話が、サキノの人生を大きく変えようとしていた。サキノはためらいもなく会社を辞め、家出という驚きの行動に出た。
平和で充実した日々を捨てて向かったサキノの未来に、果たして何が待ち受けていたのか…。