渡辺 紀子(わたなべのりこ)
「なに!受かっちまったのか?困ったなぁ。なじょすんべ」。
サキノが高校合格を知らせた時、母の第一声はこれだった。
「今なら大喜びされるはずが可笑しな話だべ。おがぁにしてみたら、高校行くと百姓仕事が今ほど手伝って貰えなくなる。その心配だったのや。高校受けていいか?って訊いた時ダメって言わなかったのは、まさか受かると思ってなかったからなんだと」。
百姓仕事が嫌で受験したサキノにとっては、目的達成だった。しかし、働き手をとられたと思う親たちにとってはお祝いムードどころではなかったという。
当時高校進学は当たり前だったわけではなく、その進学率は半分にも満たなかったようだ。(※1)親の嘆きはしばらく続いたものの、サキノは晴れて川口高校へと入学を果たす。
さて、高校へ入ってもさほど勉強した様子は見られない。バレー部に入部、体を動かす部活動の時間が一番サキノらしい時間だったようだ。
「サキは運動神経がうんと良かったんだぞ!」と教えて下さる方がいた。そんな様子が学内の人の目に留まったものか、人生初めてのラブレターがサキノに届く。当時、男女が一対一で話すことはほとんどなかったというから、きっと人づてにでも届いたのだろう。その記憶もあいまいだ。
さすがにこれには驚き、ドキドキ心弾ませていたのでは? と想像を働かす。でも、またもサキノに浮かれた様子は見られない。受け取った手紙を読むだけ読んで、そのままにしていたという。何人かの人から届いたようだが、ずっと同じことの繰り返し、そしていつも通りの毎日を送っていたという。
そのサキノの対応に見かねた友達がいた。勉強が出来て小説まで書くような同級生の女子だった。
「ラブレター貰ったらちゃんと返事書かないとダメなんだよ!」と叱られる。
「そんなの書き方も分かんねぇから出来ねぇも」とサキノ。
「じゃあ私が書き方教えっから、ちゃんと書いてみて!」と。
結局、彼女の綴り方教室が始まった。気合を入れて臨んでくれた彼女に、当のサキノは
「元々分かんねぇと思ってるとこに、どんな文句だったか思い出せねぇが、まぁピンともカンともこねぇ言葉ばっか出てくんだ。多分小説に出るような美しい言葉だったんだべな。だも、ひとっつもまとめられなくてギブアップ。友達もこれはダメだ!と思ったんだべ、騒がなくなったのや」。
たちまち綴り方教室は終了となり、サキノは元のペースに戻ることとなる。
片思いなんてことはなかったのだろうか?との疑問に
「うんとスポーツが出来る先輩なんか見て、カッコいいなぁなんて思ったことはあったな。でも、用事でもねぇと直接先輩と話すなんてまずねぇから、たぁだ、ちっと眺めてただけや。そんなもんだったな」と。
ある男性の方がこう語る。
「高校にもなっと好奇心はあったが、同級生の女の子は上級生のものみてぇな雰囲気があったなぁ。だからやたらに声なんか掛けられねぇ。ちっと目立つ子なんかに話しかけてんの見つかったら、先輩から呼び出されて往復ビンタだったわい!だから修学旅行の時は、先輩の監視がねぇから、伸び伸び同級生としゃべれたな。でも一対一ではなくグループでだぞ! 当時はグループが精一杯だったからな」。
今の高校生とは比べものにならないような時代だった。でも、やはりマドンナ的な人もいて、想いを伝えるラブレターはあちらこちらで交わされていたのだろう。サキノの元にもわずかに恋の気配は漂っていた。が、恋に発展することはなく、高校時代はあっという間に過ぎてしまっていたようだった。
「きかんぼサキも、何だかラブレター貰ったことあるみたいなんですよ」と、サキノと同年代の男性に冗談めかして話していた時のことだ。
「俺もサキにラブレター出しただぞ。まぁ返事は来なかったがな」と。
びっくり仰天!こんなに穏やかで思慮深い方がサキノに???意外だった。あまりに不意に、あまりにサラリと飛び出した一言。でも、サキノの発言は噓でもはったりでもなかったようだ。突如、サキノの淡い青春の一こまが目の前に現れたようで、思わずクスリと笑ってしまった。
※1 福島県教育委員会『福島県教育委員会年報1955年版統計篇』(昭和31年2月15日発行)
福島県教育委員会『福島県教育委員会年報1956年版』(昭和32年3月25日発行)
これら資料によると、サキノが高校進学の頃の進学率は40%弱と思われる。
ただこの当時は、定時制夜間部があったため、就職しながら進学している者を
入れても、40%位と思われる。