オバンバフミと杉っ葉拾い(冬の遊び) | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津に生きる

オバンバフミと杉っ葉拾い(冬の遊び)

2024.03.15

鈴木 サナエ(すずきさなえ)
 
 1月15日にアップされた奥会津ミュージアムの井口恵さんの「サイノカミ」を読んでいて、「ばんば踏み」の言葉があってびっくりした。三島では「ばんば踏み」とはサイノカミを立てる場所の雪を踏み固める作業のことだという。私の記憶にある雪遊びの「オバンバフミ」の言葉の起こりと無関係ではないような気がしている。

  <オバンバフミ>
 子供の頃の冬の遊びの中で、真っ先に思い出すのは「オバンバフミ」だ。昭和20年代の後半、2月下旬か3月の頃だと思う。暖かな日差しを受けて、毎日のように降っていた雪もようやくおさまり、その雪が締まってくる。
 そんな日を待って、私達女の子は、薄暗い家を飛び出し、少し開けた広場で「オバンバフミ」の遊びが始まる。雪の上を、ここはトウリマ(玄関)、ここは居間、ここはミンジャ(水屋)、中門なんて言う言葉もあったかもしれない。さすがに、当時、ほとんどの家が曲がり屋で、厩もあったのだが、遊びの家の間取りにはそれはなかった。大きな家の設計図のように、仕切りを作り、順々に踏み固めていく。出来上がると、それぞれが家から持ち出した、ヘラや茶碗で「また来ました」の挨拶から、ままごと遊びが始まる。誰も「ままごと道具」等は買ってもらえないから、丸い大きなお盆がテーブルになり、お椀に盛り上げた雪がご飯になる。
 服装は、みんな上はトッパーと言っていた上っ張りに、綿入れ半纏を着込み、下はズボンの子もいたし、縞模様のモンペの子もいた。長靴はようやく買ってもらえたが、藁のゲンベイの子もいた気がする。頭はそろってみんなおかっぱで、被り物と言って、材質はウールだったのだろうか、暖かで、色とりどりのネッカチーフをかぶっていた。日に焼けた顔の頬っぺたは、やっぱりみんな真っ赤で、テカテカしていた。
 たった八軒の集落に、同じような年恰好の女の子が四人もいた。いつも何をするにも、二つ上のヒッコ(ヒロコ)がボスで、マッコ(マサコ)、スッコ(スエコ)で私がサッコ(サナエ)と、誰も正式な名前などで呼ぶこともなく、上も下も呼び捨てだった。男の子も四人いたし、二つ下の女の子もいたが、こんな時の仲間には入っていなかった。

 今回、「オバンバフミ」のことを数人に聞いて回ったが、年上でも知らない人も多かった。
「サナエさんの住んでいる集落は上品だったなあ、おらほはバンバフミだった」
と、笑って教えてくれた人もいた。年下の人からは、そのものずばりで、雪が降り始めたばかりの頃に、「踏んでままごと」と言って遊んだという人もいた。
 残念ながら、只見では三島で言う、サイノカミの場所づくりの「ばんば踏み」との繋がりは、見つけることができなかったが、この後もチャンス毎に聞いてみたい。

  <杉っ葉拾い>
 オバンバフミのメンバーで、冬が近づいた降雪前の秋、縄一本を持って、すぐ近くの裏山に「杉っ葉拾い」に行った。
 冬の間、囲炉裏に火を燃やす時の「焚き付け」に使う、油分が多く、しかも容易く手に入る、杉の葉を拾ってくるのは、どの家も、子供に任された大事な仕事だったのだ。
 山の斜面で、背負い上げる時に楽な場所を見つけ、縄を広げる。広げた縄の上に杉の葉を順々に積み上げていく。落ち葉となった杉の葉は、軽いけれど、不安定な山を下りる時に、崩れないように、しっかりと、上手に、少しでも多くの杉の葉を背負ってこなければならないから、子供心にも真剣だった。
 けれど、「手伝い」としてではなく、明るく、楽しい「遊び」として思い出されるのは、いい香りに包まれた自然の中で、思い切り駆け回ることができて、また、同じ年恰好の多くの仲間から、見よう見まねで、教えてもらうことも多かったからなのだと思う。

 私が「オバンバフミ」や「杉っ葉拾い」をやって楽しんでいた頃、今思えば「電源開発の嵐」が目の前に迫っていた。私が「杉っ葉拾い」の体験の楽しさを語ったら、「今の子供に楽しいお手伝いってあるのだろうか」と疑問を投げかけた人もいた。
 なんといっても、楽しかったり、子供なりに感動したりすることが、次のステップに繋がっていく。今の子供たちの「楽しい」とは何だろうか。