【きかんぼサキ】冬の通学 ところ変われば | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【きかんぼサキ】冬の通学 ところ変われば

2024.02.01

渡辺 紀子(わたなべのりこ)

 産んでくれる親を選べないように、生まれてくる場所も選べない。生まれて暮らす土地の違いで運、不運があること、誰でも一度くらいは感じたことがあるだろう。サキノの通う川口中学校の中でも、それぞれ驚くほどに異なる日常を送る生徒たちがいた。それは、その中学に通ったある一人の方の呟きから見えて来たものだった。

「中学校の中には一部屋だけ畳の部屋があってなぁ。そこに冬の間だけ寝泊まりしてる生徒がいたんだ。どこの誰かは分かんねぇが、間違いなくいたんだぞ」と。
宿直の先生ならいざ知らず、生徒が暮らしていたという。

 奥会津の冬は過酷だ。今でこそ積雪2~3mといった話を耳にするのは随分少なくなってきたが、当時それは当たり前のことだった。その部屋に暮らしていたのは、通学が困難な玉梨、太郎布といった集落の生徒たちだった。同じ玉梨でも野尻川をはさみ手前の生徒は通い、川向うの生徒だけがその部屋で暮らしていたという。17年生まれのサキノの年代の頃の生徒たちまでは何とか通い、20年過ぎの人たちから学校を利用し始めたようだった。

当時の人たちは、子どもの冬の通学をそれぞれが考えて対処していたらしい。学校のそばに親戚がいる家は米を預けてそこから通わせてもらったり、学校で生活したり、また川口高校の寄宿舎の一部に3年生の時だけ生活した生徒もあったという。少し後に正式な中学校の寄宿舎が出来るまで、同じ集落の生徒でさえバラバラの環境だったようだ。

 中にはずっと自宅から通っていた生徒もいる。寄宿生活を強いられるような集落は、基本的に除雪など入らない集落だ。そんな集落の大人たちは毎日“雪踏み当番”という役があり、順番がまわって来た人が朝・昼・晩と道をつけるのだった。普通の雪の時は2人、大雪の時は4人で務めていたという集落もあった。
通勤する学校の先生や、役場や郵便局の職員が、通学の子どもたちの先導をしてくれていた。そうしてやっと学校にたどり着いたものの、足はぐしゃぐしゃに濡れてしまうことも多かった。
「見かねた先生が、“まずあったまれ!”と言うんだっけ。そうしてストーブにあたって乾かしてっと、時間なんてしばらく経っちまう。そうこうしてっと、はぁ帰る時間になっちまうんだわ!ハハハ」と懐かしく語る方がいた。雪国ならではの試練と思いつつ、どこか楽しんでるようでもある。

「昭和38年の“三八豪雪”の時、家の前で計った記録が残ってんだ。3m90cmだったなぁ。そうなっと、はぁ“雪かたし”とは言えねぇ。“雪掘り”や。掘り出していくしかなかった。その頃から重機が入って除雪なんて始まってきたな。そして昭和40年の豪雪で“水苗代(みずなわしろ)”がだめで“畑苗代(はたなわしろ)”にするしかねぇとなった。そこで重機がうんと必要で、それで除雪が本格的に始まったのや」。玉梨集落の人が語って下さった。

 これが当時の当たり前の冬の情景と思っていた。ところがきかんぼサキ、サラッとこんな事を言う。
「学校行く時か?大人の先導なんかねぇ。子めらだけで行ってた。冬だって、そぉだ大変だった気がしねぇな」。
同じ地域で雪の量も一緒で、そんなはずはない。またきかんぼのはったりなのか?にわかには信じ難かった。

「小学校5年生の頃から、ダム工事のダンプとか朝からガンガン走ってた。だから冬も朝から除雪もダンプも走ってたな。雪の分で道路がちっと狭くなってっから車避けんのに気を付けんなんねぇが、学校通うの大変だなんては思うことは無かったぞ」。
そう語るサキノの同級生の話から、サキノの話が決して大げさではなかったことが分かった。ダム工事の車が通る道沿いの集落とそうでない集落では、通学の光景は全く別の様相を呈していた。ほんの数キロの範囲で運、不運が分かれ、こんなところでも電源開発のふもとの集落の特異な状況があったのだった。

「ほか村がそんな大変だったなんて、今までひとっつも分かんなかったな」。
子どもたちにとって、目の前の日々が全てだった。同じ学校の仲間が、かたや典型的な雪国の日常、かたや現代に近くなった雪国の日常を送っていた。それぞれがそれを知ることもなく過ぎてしまっていたのは、実は幸せなことだったのかもしれない。