【聞き書き】昭和村下中津川・大火の記憶(前編) | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【聞き書き】昭和村下中津川・大火の記憶(前編)

2023.12.01

須田 雅子(すだまさこ)

 昭和26年5月3日、昭和村下中津川集落で起きた大火では127世帯が罹災した。当日の様子について、新田地区の酒井高一さん(仮名。昭和2年生まれ。当時23歳)にお話を伺った。

桜の花が満開を過ぎた頃だ。雪が消えて早い人がアサ畑の耕し方を始めた頃。その日は朝からとってもいい天気で風が強かったの。風速12メーターだったと。道端の柴草などはまだ芽が出ねえうちだから白く枯れていて、煙草の火を落とすとぽーっと燃え出したの。「随分乾燥してるなあ」と思って、それ消して山さ行った覚えがあんの。山ったって川向こうのすぐそこで柴伐り。

その日は何か朝から騒がしかった。あの頃、子どもが大勢(たいぜい)いたから、子どもが母ちゃんから怒られるような声が時々してたんだ。昼飯食べた後、籾を精米所に持って行けと言われて、筵を縫って袋状にしたタテグチガマスに籾を入れて藁で蓋をして寄せておいたのを、2俵精米所へ背負ってって、1時過ぎの頃、山にまた柴伐りに行ったの。着いて間もなく、また子どもが怒られてる声が聞こえんだ。「何で今日は子ども怒られてんだあ、おかしいなあ」と思っていたらば、半鐘の音を聴いただっけか、「火事だ!」っていうのを聴いただっけか。見たらば1キロ以上下(しも)の高いとこ、ぽーっと煙が出てんの。気多渕で火が始まったばかりだった。

俺、消防団だったから、「こうしてらんねえ」と思って駆け足で家に戻って、はっぴに着替えて火事場へ行った。火元から6軒目あたりが盛んに燃えてっとこに駆けつけてみたがポンプ故障して水が出ねえの。万事休す。「引き上げるしかねえ」と思っていたらば、さあ、新田と阿久戸に飛び火したと。振り返ったら新田の下(しも)の端の家と阿久戸の中間ぐれえの家の屋根から火が上がってた。そこで消防団も解散状態みたいになった。

真っ先に我が家に駆けつけるわけにいがねえから、俺は新田の一番先に火のついた家のすぐ前が、いとこのようにしていた家だったからそこに飛び込んだ。何をどうしていいかわかんねえが、そこの嫁さんが俺より3つ上くれえの年で、「何を出す」と聞いたってわかんねえ。花嫁ダンスが2階にあったんだが、そのまま出すわけにいがねえから、着物いっぱい入った引き出しを抜いて外に放り出したの。2階から投げてっから引き出しがみんな崩れんのもわかっけが、そっだこと構ってられねえ。貯金通帳とか印鑑とか現金もだが、「貴重品何かねえか!」って聞いたが、嫁に来て間もなくで「わかんねえ」と。

そうしたらそれの姑さんが、「米を出してくろ!」って言う。向こうにタテグチガマスが積んであんのが見えたの。米2俵あったんだから、糠もついて筵もあんだし、総目方は100キロ前後もあるべえ。それを持ち上げたが、へたがつっかえて歩かんねえの。やっと家の外まで転がし出して、そこに来た友達と二人で家の前の池にその籾を浸して。その頃にはその先の家が全部燃えてんだから。それから自分の家に駆けつけて、手当たり次第に家のものを出したっけが。まあなあ、なんとも話のしようがねえような状態だったなあ。

下中津川大火の様子(写真提供:昭和村教育委員会)

午後4時頃までにはほとんど焼けて、あとには土蔵に火が入ったのがあっちこっちポツポツ残った。駐在所の向こうの家の土蔵が最後に焼け落ちたのが暗くなって6時過ぎだべなあ。俺と親父、夜、蔵の見回りしてっときに、見渡す限り火がカッカッカッカッと燃えて、まあ、美しいと言えば美しい。「一面の火の海」っていう言葉があんが、あれはまあ、ほんにぃ、普通では見当も想像もつかねえ状態だったなあ。