石橋遺跡(南会津町針生) | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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石橋遺跡(南会津町針生)

2023.12.01

菅家 博昭(かんけひろあき)

 合併前の南会津町会津田島では、後原の田島郷土資料室を主宰する樋口弘一氏と渡部康人氏らが小中学生時代から先史時代の遺跡の踏査を行っていた。それは昭和45年(1970)から「田島郷土資料室・たじま考古クラブ」が発刊した『たじま考古』第5号に記載されている(昭和56年・1981年6月刊行)。
 田島町史の編さん事業がはじまり、彼等が執筆者の伊藤玄三氏を町内の遺跡に案内した。また樋口氏は『田島町史』第5巻の資料編に、45遺跡についてそれまでの踏査記録「田島町原始古代の遺跡」として発表し、伊藤氏が監修した。樋口氏は、伊藤氏による補筆・削除が加えられ説明不足になってしまったので、『たじま考古』第5号を発刊し、その正誤・削除前の部分等を公表している。
 私は昭和49年(1974)の5月に小野川で発見された縄文早期の小峠遺跡を通学の行き来で表面採集した。中学3年、15歳の時であった。この遺跡は常世式土器の貝殻腹縁文を施文しており、8000年前のもので、たいへん感動した。昭和52年(1977)の6月、高校3年生の時に改めて小峠遺跡の表面採集を行い、考古学に興味を持った。生業は農業であるが、これが機縁となって、地域文化の調査研究をライフワークにすることにした。
 昭和55年(1980)3月に考古学者・中村五郎氏から『磐梯町の縄文土器』抜刷(1976年)を送付いただいた。その後6月8日に、昭和村大岐の自宅に中村五郎氏・藤崎富雄氏・星将一氏が来家され、小峠遺跡より表面採集した縄文早期土器群を写真撮影して帰られた。星将一氏は『福島県考古学年報』5号(1975)に、小峠遺跡の報告をした民間の研究者である(22ページ)。
 中村氏が樋口氏に私の所在を連絡したことでその翌年の昭和56年6月27日に樋口氏からはじめて書簡と石橋遺跡について掲載されている『田島町史』第5巻の抜刷と『たじま考古』第5号等を郵送いただいた。

 昭和49年(1974)晩秋、当時田島中学校2年の渡部康人氏が縄文早期の山形押型文土器片を採集し、翌年、田島町教育委員会が発掘することになる(『田島町史』第5巻、242ページ)。
 法政大学の伊藤玄三氏は『法政考古学』第1集(1977)に「福島県田島町石橋遺跡の押型文土器」を執筆している。冒頭の物語を紹介する。
 昭和49年(1974)4月に法政大学に赴任し、しばらくしてから福島県南会津郡田島町において町史編さんの仕事に協力してほしいとの話があった。筆者にはちょうど10年前の昭和39年に『会津若松史』の調査として会津大塚山古墳発掘参加の経験もあり、また広く会津盆地内の主要出土品の調査も行う機会が与えられて、田島町を訪ねるということもあったので、微力なりとも役立ち得るかと考えられた。そこで、考古学的な分野での参加を承諾した。
 早速、同年11月初旬に田島町内の遺跡を踏査し、従来の出土資料等についても町史編さん室の方々より教えていただいた。この踏査の折、町内の西部に位置する針生においても数カ所遺物出土地点があるとの事で、それを訪ねるべく車で針生に向かっていた。その途次、針生方向より一中学生が自転車で下ってきた。彼が、田島中学校の渡部康人君であり、その日も針生方面の遺跡を調べての帰路であった。筆者の案内のために同行していた樋口弘一君とともに、この田島町内の遺跡調査についてはかなりの成果をあげている由であった。その日の採集資料を見せてもらったところ、そのなかに紛れもなく一点の山形押型文土器が含まれていたのである。出土個所をたずねたところ、石橋遺跡であるとの事であり、我々もまた期待してその遺跡を訪ねることになった。しかし、その折りには草・前期の土器片が若干見られた程度であり、ついに押型文土器の資料を加えることはできなかった。
 けれども、渡部君の採集した山形押型文土器は、これまでほとんどその種の例を東北地方で聞くことのなかったものであり、近接している北陸・中部・北関東では良く知られている系統の押型文土器文化が東北まで範囲を広げるものとなるという点で極めて注目すべき資料であると思われた。そこで、町史編さん事業の一環として、この問題の認められる石橋遺跡の発掘調査を実施することにした。
 調査は、積雪が融けて農作業が開始される直前の短期間が予定され、昭和50年(1975)4月14日から同25日の12日間行った。調査の結果、石橋遺跡は広い範囲にわたって遺物が散布することが知られたが、良好な包含層もなく、特に顕著なまとまりある遺物の散布することがわかった。ただし、この調査において、期待した押型文土器の出土は確認され、しかも予想外に格子目押型文土器も出土することが知られたのである。出土量としては小破片10点を数えるのみではあるが、東北南部における明瞭な押型文土器出土遺跡を確かめることができたことは大きな収穫ということができよう。

 福島県内では縄文早期の押型文土器は、いわき市の竹之内遺跡の発掘調査でも確認されている(馬目順一氏ら『竹之内遺跡』、1982年刊)。常世式同様の貝殻沈線文土器も確認された。この遺跡では、押型文土器と共存する竹之内式土器を設定する提案を行った。また黒曜石剥片が確認された。
明治大学の阿部芳郎氏は「縄文早期における遊動的狩猟集団の拡散と回帰」(『移動と流通の縄文社会史』雄山閣、2010年)において、この竹之内遺跡を取り上げた。この押型文土器は中部地方のものであるとし、住居跡等との関係から次のような推論を導き出している。

(以下引用)
 竹之内遺跡は中部地方の押型文土器(樋沢式土器)と無文土器・沈線文土器との併行関係を確定する事実として注目されてきた。竹之内遺跡の石器は1497点であり、そのうちの1318点(88%)が剥片である。剥片の中で800点が流紋岩で、黒曜石は180点ある。剥片石器の内訳は石鏃が100点と最も多い。そのなかで、黒曜石製の石器は石鏃が13点と残核が1点ある。また黒曜石で作られた石器は石鏃だけであり、石器器種と石材の対応が明確である。残核と剥片の剥離面の構成から考えると、板状の原石から両極打法によって剥片を打ち取っている。
 竹之内遺跡に残された黒曜石の石器群は、局部磨製の有抉短身鏃だけでなく、両極打法による剥片剥離と石鏃の未製品を残していた。流紋岩や頁岩を素材とした在地的な石器製作は「斜辺両極打法」か大型の剥片から製作されたものであり、この事実はこれらの伝統とは異なる中部地方特有の石器づくりが、遠く、直線距離にして300kmあまりも離れた竹之内遺跡の一角で行われたことを示している。
 これまでの遺跡出土の黒曜石の産地推定の解釈は、産地からの一元的な流通が指摘されるのみであった。特定産地からの資源移動の背景には、需要側と供給側という2つの集団を対置した交換や流通とは、やや異なる背景を想定することが必要になった。
 土器製作技術で樋沢式土器と竹之内式土器は異なり、両者の特徴を併せ持つような土器が存在しない。こうしたことから、遠路を移動して竹之内遺跡に到着し、その場所に一時的に居留した中部地方の人々の姿が見えてくる。
 黒曜石の産地分析を行うと、65%が西霧ヶ峰系、和田鷹山系が25%、男女倉系が5%。これらはいずれも樋沢式土器の分布圏にあたる八ヶ岳周辺にある原産地である。分析資料の有抉短身鏃はすべてが中部系黒曜石であった。
 さらに黒曜石の中には7点の高原山系(現在の栃木県)が含まれ、樋沢式の分布圏と竹之内遺跡との中間地点にある。これ以外に土倉系、恩馳島系が各1点ある。混入の可能性もあるが、土倉系黒曜石は竹之内遺跡で出土している日計型押型文土器とともに招来された可能性があるが、恩馳島系の流入は不明である。
 中部地方を出発した狩猟集団は有抉短身鏃と樋沢式土器、それに補充用の黒曜石原石を携えて、北関東の高原山産黒曜石の流通網を経由し竹之内遺跡に至った。おそらく高原山産黒曜石は北関東を経由した集団が入手し得た補充用の黒曜石だったのだろう。
 押型文土器にともなう中部地方の石鏃は小型の有抉短身鏃であり、重量も軽いために射程の長い長弓ではなく、比較的短い射程の短弓に用いられた可能性が高い。山間部などに展開した彼等の弓矢猟の主だった狩猟対象は、サルやムササビ、タヌキなどの小動物がその対象とされたのではないか。
 中部地方を出発して一時的に居留した竹之内遺跡等で彼等の土器作り・石器作りは受け入れられた痕跡がない。黒曜石そのものが尽きると、あるいは枯渇する前にはふたたび故地へと回帰していった。
 この時期に北関東の遺跡で黒曜石の有抉短身鏃や押型文土器が在地の土器形式とともに遺跡から出土することは珍しいことではない。実態としてはかなり普遍的で広い範囲にわたって認められる現象ではなかったか。石器と土器を携さえた集団の遠征と一時的な居留、中部地方の人々の周期的な遠征と回帰が広く行われていたのではないか、としている。
(引用終わり)

 前掲書から11年後、阿部氏は「縄文土器と社会」(『季刊考古学』155号、2021年)で、この早期における遊動的な集団の移動と押型文の拡散について以下のように記している。 

(以下引用)
集団そのものの移動に土器や石器石材などが携行されて広域に移動した結果が特定の土器の分布広域化を招いた事例として指摘した。
 早期中葉には中部高地に樋沢式押型文土器が分布しているが、関東・東北地方南部の山間部沿いに樋沢式土器と中部高地の黒曜石、押型文土器に伴う特徴的な局部磨製石鏃が出土する遺跡がある。これらは関東在地の沈線文系土器を主体とする生活址の一角に集中地点を形成し、そこで黒曜石の石鏃製作をおこなっている。これらの遺物の在り方から指摘できる興味深い点は、これらの遺跡は中部高地からの単独的な移住を思わせるような在り方ではなく、かならず在地集団の形成する遺跡の一角に短期的な生活地点を残している事実である。これは遠隔地土器の共伴事例として土器形式の編年学的な知見をもたらすだけではなく、異文化集団の一時的な共存を示唆している。そして同様の現象が関東地方から東北地方南部の遺跡において確認できる点は、こうした遠隔地集団の恒常的な移動形態がこの時期の押型文土器の拡散の実態を示している可能性を示唆する。
(引用終わり)

 押型文土器を出す遺跡には他地域からの移動という背景がある。会津田島の石橋遺跡は新潟県の押型文土器に似ているという指摘もあり、いずれ遠方からの狩猟集団が奥会津に来ていたことを思わせる。昭和村の小峠遺跡にも1点ながら押型文土器が確認されている。押型文と常世式の間には時間的な差もあることから、どのように考えるのか難しい(岡本幸三『縄紋時代早期 押型文土器の広域編年研究』雄山閣、2017年、100ページ)。