【聞き書き】昭和村下中津川・大火の記憶(後編) | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【聞き書き】昭和村下中津川・大火の記憶(後編)

2023.12.01

須田 雅子(すだまさこ)

 昭和26年5月3日に発生した昭和村下中津川の大火からの復興体験について、新田地区の酒井高一さん(仮名。昭和2年生まれ。当時23歳)にお話を伺った。

大火後の下中津川集落(写真提供:昭和村教育委員会)

ともかく空襲の後のような状態だった。おら家なんどは水一滴かけねえで焼けたんだ。残ったのは炭っ屑だけ。それを川のそばに捨ててもらったんだが、今度は夜寒いとき焚き物がねえ。幸い蔵に竹で作ったでっかいふるいがあったの。俺の親父、それで炭っ屑をふるって炭とって、七輪に起こして暖をとった。

新田橋(土橋)も焼け落ちて、一か月ぐらい経ってから新しい土橋を架けるに、村人足(むらにんそく)で橋桁を渡して、そこに丸太を敷きつめて土を盛る。今の床屋の下(しも)の土を使ったが足りなかった。昔、商いをやってた家の裏にでかい蔵があって、味噌蔵だとか醤油蔵だとか言っていたと思うが、それが焼け落ちてそのまま木の燃えた上に土蔵の土かぶってたのな。そこの土をもらって橋に運ぶに掘ってったら火になった。一か月もうずもれた状態になってたのが掘り起こさっちぇえ、空気に当たって火になったんだと思うがそういうこともあった。

普通に畑、田んぼで仕事できるようになるのは3年目だ。みんな手伝い合って新しく家を建てた。今日は誰の家、今日は誰の家で毎日のように建前。女の人もその勝手の手伝い。

焼けた残材は、昭和村じゅうの消防が集まって、全部、川に捨てちまったの。リヤカーなんどはみんな燃えちゃったから、てんでに焼けた残材を「もっこ」に載せて、二人で持って川に捨てた。「もっこ」はいわゆる担架。縄を編んで両側に棒を通して物を運ぶ。127戸焼けたんだから丁寧なことやってられねえ。どんどん片づけねえなんねえから、大切なものもみんな川に捨てちまった。ずっと後で、子どもが川に魚獲りに行ぐと、川の中からお金が出てきた。金銀財宝 (笑)。

大火で全部焼けてなくなっちまった。1軒きりでねえ。隣も同じだ。おらい(自分の家)は貧乏な方だから、かえってさっぱりしたような、考え方によっては、まあ、肩を並べて暮らせるような気がしたな。一種の諦めかもしれねえが。

家建てるときは、みんな自分の山から木を伐ってきて建てたんだが、おら家は大火の50年前に一度焼けてんだ。そのときは、おらいを火元にして6軒ぐれえ焼けたと。それも春先らしい。おらいが火元で焼けたもんだから、おらいの山の木は全部、焼けた家の人たちにやっちまった。焼けた5、6軒の復興が見当ついてから自分の家の山に残った木を使って家建てた。したから山は丸坊主。その裸山を売って暮らしを立てたから、おら家では大火のとき、家に使えるような木はなかったの。それで大芦のいとこを頼ってひと山買って、大芦の方から木伐ったっけ。おら家の材木、全部これ、山出しやら製材やら大芦の人たちに手伝ってもらって運んだ。したから、おらいは都会の家みたいに材料がみんなやさしい。でっかい柱はねえだ。

職人が足んねえだ。出来っことは自分でやんねえと。屋根葺きと壁は俺と親父でやった。壁は柳沢の奥、大岐まで行って竹伐ってきて、縦は確か2本、横は何本入ったかなあ。それにヨシを2本ずつ巻き付けて、ここでは「壁ごめ」なんていうが、本当は「小舞(こまい)」っていうだ。それを俺と親父でやっちまって荒壁全部塗った。

ガラスは、その頃、只見川の電源開発で上田(うわだ)発電所とか田子倉発電所始まる前だから、そこに冬出稼ぎに行った給料で買ったっけ。大工賃は叔父がやってくれてかかんなかった。これ6万100円(住宅金融公庫の借入金)の家なんだ。悲惨なものだった。

現在の新田橋と新田地区(2023年4月22日撮影)