菅家 洋子(かんけようこ)
11月13日、大岐集落に、初雪が降った。
前回のコラムで、初雪の日を11月10日あたりと予想した私。これは、当たりと言っても良いのではないでしょうか。その日昭和村のなかで雪が降ったのは、喰丸峠を上った先にある小野川地区だけ。昭和村で一番最初に雪がやって来る集落に暮らしているということが、どこか誇らしい。
かすみ草の出荷は終了し、パイプハウスの解体も終えている。露地で育てている草花がもう少し残っていて、週に数回ほど採花し出荷していた。私が担当していたのは、セリ科の「グリーンミスト」。その花も、雪の重さで茎が折れてしまった。惜しく思う気持ちも多少あるけれど、自然によって幕が下ろされる、そのことには清々しさがある。ここでの暮らしのサインは、いつも自然が出す。雪が溶け、土が現れれば農業が始まり、雨の日には雨の日の、晴れの日には晴れの日の仕事をする。
かすみ草という花の白が終わり、今度は空から雪の白がやって来る。そういえば11月のはじめ、会津盆地で今季はじめての白鳥を見た。白鳥もまた、季節を告げる白だ。
白鳥は私に、特別な感情を抱かせる。秋が深まれば、そろそろだなぁと思い浮かべ、猪苗代湖にやって来たというニュースを聞けば、いよいよ!と気持ちを高ぶらせ、会津盆地に姿を見つけると、よく来てくれたなぁと胸がいっぱいになる。この気持ちはなんだろうと、今改めて考えてみると、とても強い憧れなのかもしれないと思う。田んぼに集まっている白鳥たちを見ると、その中に混ざりたくて仕方ない気持ちに駆られる。どうやったらそうできるか、静かに静かに近づいたとしても、驚かせ飛び立たせてしまうだろう。パンを持って、餌やりの体で近くに行くことも考えたけれど、落穂を食べている彼らにわざわざパンを差し出すのは不自然に思える。透明人間になれたらいいのに。白鳥たちのなかに、そっと座って、その姿、表情、動きを眺め、白鳥たちの語らいを聞いてみたい。
毎年毎年、そんなことを考えている。その思考に、最近少し変化があった。これまでは物理的に白鳥に近づきたいとばかり思っていたけれど、存在として白鳥に近づく事を考えてみてはどうだろう、と。自分で言っておきながら、まずはその意味からひも解く必要があるのだけど、夫のヒロアキさんに話してみると、「じっと見ていれば、白鳥になれる時がくる」と言われた。ヒロアキさんは極寒の雪山でイヌワシを観察し続ける中で、ある時自分が、目に映るイヌワシそのものになった様な感覚に包まれたという。とても不思議なことのようで、でもどこかで、そうなのかもしれない、とかすかに思う。どうしても近づけない、それでも目を凝らし耳を凝らしその姿を追うとき、いつかその境界が曖昧になって、すっと重なり合う瞬間が、あるのかもしれない。
存在として白鳥に近づく。そのひとつとして、渡ること。たくさんの景色を見ること、出会うこと。そのなかで白鳥たちはきっと、内省している。だから私は、彼らの話を聞いてみたいと思う。これから始まる農閑期。私も旅に出よう。来月は実家の広島へ。家族が私の飛来を、待ってくれている。