【奥会津】檜枝岐村の縄文遺跡を読み解く(2) | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【奥会津】檜枝岐村の縄文遺跡を読み解く(2)

2023.12.01

長島 雄一(ながしまゆういち)

小沢平(こぞうだいら)遺跡と内陸の道

小沢平遺跡は尾瀬ケ原の北にある三条ノ滝から北に4.8㎞の只見川最上流部、福島県と新潟県の境に位置する、福島県最奥の遺跡です。 
『檜枝岐村史』によれば、本遺跡からは「縄文式土器が相当出土して」おり、「石鏃等も出土して」いて、土器は「後期」のもの、という記載があります。狭隘な山間部に位置するこうした遺跡では、少量の土器片や石器が発見されることが多く、本遺跡も狩猟の時などに使われたキャンプサイト的な性格をもった遺跡であった可能性がありますが、『檜枝岐村史』の「相当出土した」という記述を重視すれば、小さな集落(ムラ)であった可能性も否定できません。
小沢平の開墾は戦後の食糧難を背景に、太平洋戦争終結直後の昭和21年3月から開始され、大木との格闘を経て、その後、開墾地での厳しい生活が始まりました。

写真2-① 小沢平遺跡出土土器 表

 

写真2-② 同左 裏
写真3-①
写真3-②

写真2は檜枝岐村歴史民俗資料館所蔵の資料で、いずれも檜枝岐村における最古級の土器です。写真2―①②は早期末葉の土器(条痕文土器)、写真3―①②は胎土に繊維を多量に含む前期前葉の土器で、その他に縄文後期の土器や小型の磨製石斧が出土しています。

写真4 星晴次氏採集資料(左端は石鏃)

写真4は開墾者である星晴次氏が採集した黒曜石製の石鏃と剥片です。黒曜石はこの地で入手することはできない石材で、遠い産地から運ばれてきた可能性が極めて高いものです。また剥片は石器製作の際に生じるものですから、この地で黒曜石を割り、石器を作っていた可能性があります。これらの黒曜石は、今後、産地同定分析をすることが決定しています。その結果によって「内陸の道」が浮き彫りにされることを期待しています。

写真5 小沢平 開墾して作られた蕎麦畑

写真5は昭和30年代に撮影された星晴次氏の蕎麦畑で、開墾の苦労が偲ばれます。写真2~4の遺物は、写真5右奥の小高い丘周辺から主に採集されたということです。
遺物の観察から小沢平遺跡は縄文早期末葉・前期前葉(約7,000年前)や後期前葉(約4000年前)の遺跡と考えられます。檜枝岐村最古級の土器が、最も奥まった小沢平遺跡から出土していることは驚きです。

写真6 ズーによる岩魚(イワナ)漁

参考までに掲載しますが、写真6は、地元で「ズー」と呼ばれる道具を使って、本遺跡近くの大津岐川でイワナを捕っている昭和30年頃の川漁の様子です。ズーの中に大イワナが見えています。小沢平遺跡のすぐ脇を流れる只見川本流や支流から得られる豊富な川の幸も周囲の森の恵み同様、当時の縄文人の生活を支えていたことでしょう。
また小沢平遺跡は、その位置関係から、只見川沿いや内陸の道などの存在を推定させます(図1参照)。尾瀬を通って群馬北部をはじめ関東へ(後の沼田街道)、また只見川を少し下り、銀山平方面から枝折峠(しおりとうげ)を超えて魚沼市東部の湯ノ谷・大湯方面へ、さらに下流の六十里越などから新潟(中越)へと通じる道があったのかもしれません。魚沼市湯ノ谷地区にも中・後期に属する湯ノ谷芋川遺跡やその他の縄文遺跡が点在しており、今後、資料調査を行う予定です。
このように小沢平遺跡は会津と新潟・関東方面とのつながり、内陸の道などを探る上で、欠かせない重要な位置にあります。

追分遺跡

 本遺跡は檜枝岐村中心部の東側、村の入り口付近にある見通地区に位置します。本遺跡からも土器の胎土に微量の繊維を含む早期後半の土器(約7000年前)(写真7―①)や、②の中期の土器が採集されています。早期後半の土器は小沢平遺跡の資料同様、檜枝岐村で最古級の土器です。

写真7-①
写真7-②

縄文時代の檜枝岐村は秘境・・・なのか?

さて檜枝岐村のいくつかの縄文遺跡を見てきました。前回、冒頭で述べた様に、檜枝岐村のイメージは「奥」「最奥」「最果て」「秘境」などですが、果たして実態はそうだったのでしょうか? ここまで見てきたように、縄文時代に関する限り、檜枝岐村もまた近隣地域と盛んに交流していた地域であり、決して閉ざされた土地などではなかったと考えられます。
少し脱線します。では奥会津の「奥」のイメージはいつ頃定着したのでしょうか? これは諸説ありますが、例えば昭和19年9月13日付の『官報』によれば運輸通信省の告示として「会津田島」(現南会津町)と「会津宮下」(現三島町)を結ぶ運輸通産省営の自動車による貨物運送路線には「奥会津線」の名が付けられています。今のところこれが公的に「奥会津」という言葉を使った端緒と思われます。(『町史編さん室だより』第65・80号 三島町)。かなり新しい時代に「奥会津」という言葉が作られ定着していったのでしょう。
いずれにしても縄文の人々にしてみれば、檜枝岐村は少しも「奥」ではなかった、のではないでしょうか?
縄文時代の交易を物語る遺物としてよく取り上げられるものに黒曜石やヒスイ(翡翠)などがあります。長野県・栃木県(高原山)産などの黒曜石、新潟産(新発田市板山)の黒曜石や糸魚川産のヒスイ、天然アスファルト(新津方面など)、北海道産のアオトラ石製の石斧などは会津地方でも出土しています。これらの分布を見れば縄文の人々は相当広範囲で移動・行動していたことがわかります。現代人の想像をはるかに超えた行動に、いつも私は驚かされます。
さて、これら下ノ原・追分・小沢平・・各遺跡の資料は、今後も引き続き檜枝岐村歴史民俗資料館に展示される予定です。是非、ご覧いただきたいと思います。