【きかんぼサキ】 お歯黒 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【きかんぼサキ】 お歯黒

2023.11.15

渡辺 紀子(わたなべのりこ)

 集落に急激な変化の波が押し寄せた昭和20年代後半は、まるで時が早送りされているような日々だっただろう。その同じ土地にあっても、まるで別の時が流れているような人たちがいた。

 その頃の冠婚葬祭は家々で行うのが当たり前だった。親戚や近所の助けを借りながら、どの家も結婚や出産といったお祝いの席から、お葬式や法要といったお悔やみの席まで、何事も自宅で賄っていく。そのための膳や器、座布団に至るまで、それぞれの家が備えているものだった。
 そうした席に招かれた人は、ほんの少しよそゆきの身支度をする。その身支度の一つがお歯黒だったという。思い出を語って下さる方がいた。
「親戚のばぁが、お歯黒塗ってた姿は時々見てた。菱の実採って来て、それ砕いて塗る薬こしゃって(作って)たな。何かと混ぜてたようだが、詳しい中身は分かんねぇ。お椀のようなのに薬入れて、箸の先さ綿つけたので塗ってたっけ。塗ってもすぐ乾くわけでねぇから、塗って乾かし塗って乾かしを繰り返してた。その間ずっと口開けてんなんねぇべ。大変そうだなぁって見てたもんだ。毎日ではなく色がしらっぱけてきたら塗ってるようだった。そして呼ばれの前には必ず塗ってた。よそゆきの時には綺麗な色で出たかったんだべ」。
昭和20年代には、こんな光景が少なからずあったようだ。

祖母のお歯黒の思い出を語る方もいた。
「家のばぁちゃんもお歯黒塗ってる人だった。ただ昭和29年に起きた大火で家が全焼して、道具がまるっきり無くなっちまった。それでやりたくてもやりようがなくなったんだべ。その頃はダム工事でよその人がどんどん入って来てたりして、それもあって止めたのかもしんにぇな」。
ダム工事によるよその人たちの出入りが、お歯黒文化の消滅を決定的にしてしまったのかもしれない。かすかに見られたお歯黒の年寄りも、昭和30年代初めには見かけることはなくなったようだ。

 さて、サキノの身近にもお歯黒のおばあちゃんがいた。姉の嫁ぎ先の姑だった。サキノは甥と姪の子守を日課としていたので、いつも顔を合わせる人だった。学校から帰り次第、サキノは3歳の甥と赤ちゃんの姪を迎えに行く。するとそのお歯黒のおばあちゃんから「今日の駄賃はこれだぞ」と何かしら渡されるのだった。それはお金ではなくいつも手作りの菓子、柿飴、もやし飴、麦飴…そんなものが多かったという。柿飴はドロドロになった柿を煮詰めて作るものだが、やたらに口にすることも出来ないもので、そうした珍しい菓子を拵えてくれていたようだ。
「子めら二人預かっぺ。それからまず姉のいる山さ連れて行く。小さい子に乳くれに行くのや。姉が乳くれ終わっとまた戻って来て、姉が帰って来るまで遊ばせてる。外で遊ばせること多かったが家の中で遊ばせてる時は、そばでお歯黒のばぁが針仕事や糸紡ぎのような仕事してた。姉は山格好で汗だくに稼いでたが、そのばぁは綺麗に着物着て、野良仕事してるとこなんか見たことねぇ人だったな。子めらを山さ連れてって戻った時に、ばぁに顔出してみる。ご苦労さん!なんて、また駄賃くれねぇかなぁ?なんて思ってな。時々わざと顔出してみる。ばぁ、子めらちゃんと寝かしつけたぞとか言ってな。したが、このばぁは最初の駄賃以外は絶対くれやんねぇ人だった。これはだめだなと途中で諦めたわい!けちんぼのばぁだなぁ、なんて思った時もあったが、欲張ってはダメってことだったんだべな。ハハハ」。

 このおばあちゃんは、昭和29年に亡くなるまでお歯黒だったという。サキノの記憶によると、お歯黒の方は村に何人かはいたようだ。どのおばあちゃんもサキノの目には上品で他の年寄りとは違って見えたという。本名という小さな村に、変化に流されることなく毅然と暮らす人々の断片があった。