渡辺 紀子(わたなべのりこ)
秋の収穫が終わり一段落する11月頃になると、本名集落の家々が賑わう季節がやってくる。嫁いだ娘たちが実家に帰る“秋泊り”が始まるのだ。その時期になると、村では娘を迎え入れる話題が飛び交うこととなる。「〇〇の家の〇子は、〇日に帰って来るそうだ」「〇〇の家は〇日だそうだ」と。村の中に嫁ぐサキノの姉二人も、それぞれに帰って来るのだった。
長女は親戚筋の家に嫁いでいた。そのためかそれほど形式張らずに帰って来ていたが、
次女は親戚筋ではない家に嫁いでいたため、かなり仰々しい形で帰って来るものだった。
次女の嫁ぎ先は実家からごく近所のところだった。帰って来る日は、嫁ぎ先と実家の真ん中辺りの道で受け渡しが行われる。嫁を送り出す嫁ぎ先の側には、婿と荷物持ち役の家族が嫁を囲み立っている。こちらからは両親が迎えに立ち、そこで娘と荷物を受け取り家に連れて帰る。そんな仰々しい儀式を経て、姉は実家へと帰って来るのだった。
「すぐ見えるようなとこで、何だか面倒くせぇことやんなんねぇだなぁ?」と、サキノは子どもながらにいつも見ていたという。上の姉はそう長くはなかったが、下の姉は毎年二十日ほども泊まっていた。帰宅した日から下の姉の夢のような日々が始まる。来る日も来る日も今日はあっち、明日はこっちと一日中飛び回るように遊び歩いているものだった。秋泊りで来ている同じ年頃の嫁たちが、ぐるぐるとそれぞれの家を巡っていたのだろう。
勿論、近所には姉の夫や姑がいる。「ばったり会いそうになったから、さっと隠れたわい!」等と姉は言いながら、日々嬉しくて嬉しくてたまらない様子。秋泊りの間は、母たちも家のことは何もさせず自由に遊ばせているのだった。子どもが生まれても子どもを連れて帰って来る。滞在中はどの家も賑やかだったという。ちなみにサキノの母は女7人の9人姉弟だったが、実家から「秋泊りに来る時は、それぞれ連れて来る子は二人まで」と、人数制限をされていたという。家の広さと夜具を考えたぎりぎりの申し出だったのだろう。
本名は大きな村で、村の中での縁組が多かった。昔からの村内でのやり取りということで、この秋泊りという風習は、本名ではずっと当たり前に続けられていたのかもしれない。子どもが学校にあがると、さすがに遊び歩くわけにもいかなくなる。それが秋泊りを終えるタイミングだったようだ。滞在期間も嫁ぎ先に舅しかいない家などは、早目に帰らざるを得ないようなこともあった。そして勤めに出る生活になった頃に、この風習自体が無くなっていったように思われる。滞在期間も、秋泊りという風習を終えたタイミングも、家々の事情により違っていたようだ。
姉が帰る日が迫った頃、サキノの家では恒例の騒動が始まる。嫁ぎ先から滞在中に終えるようにと言いつけられた仕事が、全く手つかずのままなのだ。
「来たときからやってれば10日もあれば終わんのに、さっさと終わしてから遊ぶんだぞって言ってたべ」と母が小言を言いながら、姉の手伝いに取り掛かる。姉は「困った。どうすっぺ…」と。当然サキノも駆り出される。ユッコギを縫う針仕事、アシダカ作り、縄ない等々、家族総出で夜なべが始まるのだ。これは可笑しいほどに毎年同じことの繰り返しだった。
姉が帰る当日も恒例の騒動があった。「やんだやんだ。帰っちゃくねぇ。帰っちゃくねぇ…」姉がワンワンと泣き叫ぶのだが、それを母が懸命になだめて何とか送り出す。これも毎年同じやり取りが繰り返されていたという。
「こんな近くに行くのに、何であんなに切ねぇだべな?」と思いつつ
「すぐそこに行くだけだもいつでも会えっぺ。さすけねぇって!」と、サキノも毎年同じ言葉で姉を送り出していたという。
秋泊りとは、飽きるほど泊まる“飽き泊り”の意味もあると教えて下さる方がいた。年にたった一度だけ、生まれた家で過ごせる格別の時間。心の底から待ち望むこの時間があってこそ、辛い労働も辛い嫁づとめも乗り越えていけたのだろう。働き者の姉たちが家族に甘えるほんのひととき。きかんぼの末っ子は、言いつけられた縄ないに精を出しながら、すっかり姉の助っ人気分になっていたに違いない。