【きかんぼサキ】 残飯娘 鳴り響くクラクション | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津に生きる

【きかんぼサキ】 残飯娘 鳴り響くクラクション 

2023.09.01

渡辺 紀子(わたなべのりこ)

 残飯娘は1台のリヤカーに、いつも12個の桶に残飯を入れて戻る日々だった。リヤカーにはまず側面に板で少し高い壁を作っておく。下段には6個の桶をピッタリと置き、その上に板を載せ、重ねて上段に6個を置くという積み方。それぞれが、重さも違えば蓋もない。運搬は失敗の連続だった。
 コツがつかめないうちは、積み荷の重さでリヤカーが動かない。また真っ直ぐ進まず、ユラユラした挙句こぼしてしまう。少しでも軽く、少しでもこぼさず持ち帰るのは、なかなか難儀なことだった。桶の重さをみながら、どの位置に置くかを判断する。右と左のバランス、前と後ろのバランス、これがマッチするとうそのように軽く感じるのだった。サキノたちは知恵を絞り、最適なバランスと操縦法を編み出していったようだ。12個の分配は家の家畜の数に合わせて決めていた。サキノが6個、あとは4個と2個、それが最後まで変わらぬ配分だった。
 「行き帰りにしていたこと、例えば誰かの好きな歌を歌いながら歩いたとか、しりとりみたいなことして歩いたとか、何か思い出は?」 
 片道40分の道中にはきっと楽しみもあったはず、との勝手な思い込みからの質問だった。
「そおだ呑気なもんでねぇ。歌なんて歌うずら(どころで)ねぇわい。今のようなコンクリの綺麗な道でねぇだかんな」と、全ての道のりが砂利道で、平らな道ばかりではない。上りも下りもあり、広い道や狭い道と様々な様相だった。登校時間までに戻るというタイムリミットもある。あっけらかんのきかんぼサキの道中とはいえ、さすがにピクニック気分とはいかないものだった。
 残飯娘たちの通う早朝の時間帯でも、もうすでに沢山のトラックは動き出していた。その端っこをトラックの風圧にのみ込まれぬよう、ヨロヨロしつつもしっかりとリヤカーを進ませなければならない。
 道中に1か所だけ片側通行のトンネルがあった。道幅の狭さからの片側通行だった。その中にサキノたちが入る。すると、トラックはその横を通る広さがないため、リヤカーの後をゆっくり付いていくしかない状況だった。早く通り抜けたいトラック。でも早く通り抜けたいのは残飯娘も一緒だった。
「パァ~ン!ファファ~ン!ファファファファ~ン!」と、けたたましいクラクションがあちこちから鳴り響く。しかし、鳴らされてもどうしようもない。残飯娘たちはいつものペースで進むしかないのだ。
「さっさと行け!何やってんだ!なんて怒鳴り声も聞こえたが、何とも思わねかったな。それより、ここはトラックだけの道んねぇ!おらだれの道でもあんだ!って言い返したわい。でっかいトラックが何台もオレたちのあとを付いてくんだぞ。ゾロゾロってな。トラックがみんな子分みてぇだべ。いやぁ気持ち良くてスカッとしたもんだった。あの隧道通っ時がいっつも楽しみで、あれでまた、よし!って力が湧いたもんだ」。
 いくら急かされても焦ることなど全くない。やっぱり、きかんぼサキがムクムクと顔を出す。クラクションが闘志を掻き立てるBGMにすら聞こえていたのかもしれない。まるでレスラーがリングに登場する時のテーマソングのように。親分体質が刺激された時、サキノは水を得た魚のように生き生きと動き出す。サキノのリヤカーの定位置は前方正面のど真ん中。後ろから二人が押していく。残飯娘のスタイルは最初から最後までこれで終始したようだ。苦労話がまたしても武勇伝に転換される。
 名も知らぬP隊の大人たち。名も知らぬトラックの大人たち。この沢山の大人たちの目に三人の少女はどう映っていたのだろう。きかんぼサキたちが何事もなく残飯娘を務め上げられたのも、この大人たちがどこかで心の声援を送り、じっと見守り続けていてくれた。そんな気がしてならない。
 さて、サキノたちに思いもよらない話が舞い込んだ。
「残飯運びをよく頑張ったってことで、三人が学校で表彰されることになったのや。全校生徒の前で校長先生からゴワゴワ紙(和紙の表彰状)貰っただぞ。たまげたが嬉しかったなぁ」。
 身近な大人たちもちゃんと見てくれていたようだ。

「本名上流左岸から下流を望む 昭和28年9月~10月ころ」
只見川の左岸から川下方向を望む。写真中央左側、木製の大吊橋は道路付け替え後は撤去。
右側の山の上に建っているのは、トンネル(鉄道用)掘削に使用する堅坑の櫓。
現在の只見線の本名トンネルの建設時の状況が分かる貴重な写真。  
(写真提供 靑木忠志氏)

「本名作業風景 昭和27年初冬か昭和28年春先」
雪がうっすらと積もる中での作業。川べりの砂を掘り、コンクリートの材料として使用していたのではないかと思われる。  (写真提供 靑木忠志氏)

「感謝状 昭和28年2月28日」(福島県議会より)
当時の只見川電源開発工事の社会的注目度と作業員の果たした役割の大きさが分かる。