【奥会津に暮らす】 義父と | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【奥会津に暮らす】 義父と 

2023.07.15

渡部 和(わたなべかず)

 心も体もストップがかかってこの地から離れたことは、私には必要なことだったのだと思う。療養先は長野県安曇野市の郊外だった。雪のほとんど降らない平坦な田園地帯で、遠くに連なるアルプスの峰々が美しい。子ども時代を信州で過ごした私にとって、懐かしく安堵する風景だった。一人で歩いたり、新しい人と出会ったりしながら、自分に向き合う貴重な時間をいただいた。一年間の療養期間を支え待っていてくれた夫がいたからこそ得られた時間だった。

 家に帰ってきてからは、病気が進んでいく義父のそばにいることを私の勤めのように思い、すすんでそうしていた。義父が入院したときは枕元で寝起きした。昼間、家事をすませ、また病院に戻る。忙しく動くことで、むしろ私が義父に助けられていたのだと思う。

 義父が元気だったころ、家族みんなで山へキノコを採りに行ったことがある。夫は義父に習いながら、スギの幹に屋号を書き直した。かすれかけた屋号はそのまま、その隣に新しく印をつけるのは、たしかにこの家のスギだと誰の目にもわかるからだと教えられた。今も夫と山に入るたび、そのときの義父の姿を思い出す。

2011年3月11日、東日本大震災が起こった。翌朝、地区の女性たちと炊き出しのおにぎりを作った。塩むすびを黙々と握りながら、これが会津若松に集められたのち避難所へ配られると聞き、温かいまま届けられないことをみんなで残念がった。あとはただ家の中で、義父の背中をさすっていることしかできなかった。

その年の夏、義父は他界した。義父は、子どもの頃に両親と南洋へ移住したことをよく話してくれた。貧しいこの集落からは大勢一緒に海を渡り、テニアンやロタ島で砂糖作りに携わったという。終戦になり帰ってくると、義父は先祖の植えた木を守りながら、出稼ぎと土木作業員として働き家族を支えた。穏やかで優しい義父が、津波に流される映像に瞬きもせず「ああ、かわいそうだ、かわいそうだ」と繰り返していたことが忘れられない。