金山町中西部(なかにしぶ)遺跡の調査成果について | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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金山町中西部(なかにしぶ)遺跡の調査成果について NEW

2025.04.01

柳津町文化財専門アドバイザー 長島 雄一(ながしまゆういち)

 中西部遺跡は金山町大字大塩字中西部に所在する。只見川左岸の河岸段丘上に立地した遺跡であり、福島県教育委員会から委託を受けた公益財団法人福島県文化振興財団が2022年に本格的な発掘調査を実施している。只見川流域における縄文~弥生時代を主体とした遺跡の中で、これほど面的に広く、大規模に発掘調査された例はなく、初めての調査となった。その調査成果の概要を、2025年3月に刊行された発掘調査報告書によって報告する。

【遺跡の概要】

 中西部遺跡は縄文時代後期から弥生時代中期の遺跡であり、その主体時期は縄文時代晩期終末(紀元前400年前後)~弥生時代中期後葉までの、おおよそ500年間である。
 調査区中央部には広場の様な空間を囲むように弥生時代の亀甲形・片亀甲形・長方形の平面形を呈する掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)50棟、柱穴を含む多数の土坑(どこう:穴)などの遺構密集域があり、その外縁部に土坑墓(どこうぼ)群・集石遺構・土器埋設遺構(どきまいせついこう:棺)が分布している。こうした構造はいわゆる「環状集落」(かんじょうしゅうらく)と呼ばれるもので、東北地方では主に縄文時代に多く見られるが、中西部遺跡のような弥生時代の例は極めて少なく貴重な成果となった。また調査区北側には弥生時代中期後葉の周溝(しゅうこう 住居の周りに巡らした溝)がある住居跡や掘立柱建物跡が分布している。
 出土した弥生土器は、地元である会津地方や、その周辺地域の要素を持つものが主体であるが、その他にも関東・中部高地・東海・北陸地方などの系譜をもつ土器も出土しており、他地域との交流を示すものとして注目される。ちなみに金山町中川の宮崎遺跡から出土した弥生時代の管玉(くだたま)も、産地同定の結果、石川県小松方面などの石材が使われたことがわかっており、土器同様、北陸方面との関係性を示すものとして興味深い。出土した大半の土器(深鉢・甕(かめ))には、調理等に用いた証拠である炭化物が付着しており、基本的に中西部遺跡は、生活の場、居住の場として機能していたものと考えられる。
 墓としては穴を掘って遺体を埋葬した土坑墓が最も多く、また土器埋設遺構のような墓も検出されている。副葬品(ふくそうひん)として用いられ、埋葬に関係したと考えられる管玉も、主に2箇所の集中地点から細形・極細形のものが145点出土している。この点では非常に大きな管玉が多く出土した宮崎遺跡とは様相が異なっている。なお宮崎遺跡で見つかったような、土坑墓より古い段階(縄文時代晩期終末から弥生時代)に盛行する再葬墓(さいそうぼ:一旦遺体を土葬や風葬など何らかの方法で白骨化した後、遺骨を壺形土器などの蔵骨器に納めて再び埋葬した墓)は本遺跡から発見されていない。中西部遺跡は弥生時代中期の土坑墓を主体としたムラである。再葬墓から土坑墓へ・・・宮崎遺跡を含めた今後の検討が必要である。
 生業に関わるものとしては、水田遺構など積極的な稲作を示す痕跡は見つかっていないものの、土器の種実圧痕の観察によってイネ科植物であるキビとヒエ属の種子圧痕が発見されたことは、遺跡の周辺で雑穀が栽培されていた可能性を示した重要な成果である。また炭化した種実としてクリ・トチノキ・オニグルミ・ヤマグワ・イネが検出されており、炭化したクリはすべて皺(しわ)がよった、いわゆるカチグリで、一般に保存食とされているものである。ただし遺跡からは平安時代の竪穴住居跡も見つかっているので、上記の種実も縄文後期~古代までの幅広い年代を考慮する必要がある。さらに弥生土器の内面に付着していた炭化物の炭素・窒素安定同位体比分析の結果では、穀物や堅果類に由来する「C3植物」などが検出されており、それらが弥生時代の人々の食料となっていた可能性を示している。
 石器としては陸耕に関わるとも考えられている石鍬(いしぐわ)が多く出土し、そのほか横刃形石器(よこばがたせっき)、狩猟用の石鏃(せきぞく)、石器製作に用いられた石核(せっかく)や製作の過程で生じた剥片(はくへん)なども発見されている。
 こうした遺物や採取資料から総合して考えると、中西部遺跡を営んだ人びとは、キビやヒエを栽培し、クリ・トチノキ・オニグルミ・ヤマグワなどを採集して一部を保存食とし、石鏃などの石器を作って狩猟も行っていたことが推定される。また漆を入れた容器が出土したことや土器の補修に漆が使われていたことは、小規模な漆生産が行われていた可能性を示し、赤色顔料が付着した石皿や礫(れき)の出土は、ベンガラ(土壌から採れる酸化鉄を主成分とした赤茶色の顔料)が作られていたことを推定させる。

【只見川流域の縄文時代晩期~弥生時代の遺跡の立地】
 只見川・伊南川流域では縄文時代晩期後半~弥生時代の遺跡として、只見町窪田・宮前遺跡、南会津町南郷の村下遺跡、金山町宮崎遺跡・黒岩洞穴、三島町荒屋敷・銭森・小和瀬遺跡、柳津町塩ノ半在家・砂子原居平遺跡などが知られている。このうち窪田・宮崎遺跡は、先述した再葬墓と呼ばれる晩期終末から弥生時代にかけての墓が検出された遺跡として有名であり、窪田遺跡は福島県指定史跡となっている。
 柳津町からさらに只見川を下って、阿賀川と合流した地域でも、喜多方市(旧高郷村荻野)上野遺跡、さらに下流の西会津町上野尻遺跡で再葬墓が発見されている。奥会津地域では河川や発達した河岸段丘の背後に丘陵や山地がまじかに迫るという立地上の地理的制約を受ける。再葬墓を伴う遺跡は微視的に見れば、段丘面の中でも河川に最も近接した場所を選んで営まれる傾向がある。いずれも伊南川・只見川・阿賀川を眼下に見下ろす段丘の川べりに立地する点で共通している。河川を重視した会津地方西部域の再葬墓のあり方、ひいては川を介した文化の広がりや繋がり方を推定させる。
 中西部遺跡の調査は、中西部遺跡から約10.6㎞下流に位置し、ほぼ同時期にあたる再葬墓を主体とした金山町宮崎遺跡との比較、只見川・阿賀野川(阿賀川)流域や会津盆地・南会津地域との相違、さらには阿賀野川や八十里越などを介した新潟・北陸方面など他地域との関係性を考察する上で欠かせない資料を提供した。再検討すべき点もあるが、今回の調査成果をもとにした、さらなる研究の進展を待ちたい。