人体像把手(とって)付土器(土偶付土器)について | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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人体像把手(とって)付土器(土偶付土器)について

2024.10.15

福島県河沼郡柳津町「池ノ尻(いけのじり)遺跡」出土

連載第三回

柳津町文化財専門アドバイザー 長島雄一

土器の造形がもつ意味 ~ 特に「生」と「死」について
 縄文時代中期の甲信越・東北南部・北陸地方などでは、人面や人体を様々な形で土器の口縁部や胴部などに描くことが盛行します。池ノ尻遺跡の例もそうした時代の動きと関係したものと考えられます。しかし本例のように、大型で口縁部の対称位置に顔だけでなく、向かい合う明瞭な表現の人体像を一対配置したような例は極めて稀です。
さて土器(特に深鉢形土器)は基本的には調理具(鍋)であり容器です。ヒトは動植物など命あるものを土器に入れ調理して食べます。「食べる」とは生き物の命をいただき(「死」)、ヒトの「生」へとつなげる行為です。言い換えれば土器は、動植物の「死」をヒトの「生」へと変換する装置です。土器は命への感謝と、さらなる豊穣を祈る器となり、土器を囲んで行われる食事という行為は、そうした思いを表現する時間であるとも言えます。
土器から取り出される(生み出される)食べ物には自分たちを生かす力が宿っている。その力を生み出す土器に「生」や「命」への感謝や祈りが込められていた、と考えてもよいでしょう。
例えば山梨県北杜市津金御所前(つがねごしょまえ)遺跡例に代表される、いわゆる「出産文土器」は、出産時の情景をよく表したものです。出産文土器は「生」や「命」に関わる極めて象徴的かつ代表的な造形であって、土器を明らかに身体(母胎)に見立てています。土器の立体的でエネルギッシュ、時に過剰とも言える造形は、単なる飾りではなく「生」や豊穣へと続く彼らの祈りの表現なのかもしれません。
所属時期は池ノ尻遺跡例よりやや古く(縄文時代中期前葉 主に大木(だいぎ)7b式期)、また池ノ尻遺跡例とは別系統の土器として考える必要があるかもしれませんが、柳津町石生前・下郷町栗林・いわき市横山B遺跡などでは土器の口縁部(口唇部)に土器の内側を向く顔を付け、その反対側には足を付けた土器が出土しています。これも明らかに土器を身体に見立てたものです。

一方で「生」の対極にある「死」。埋葬はヒトのみに見られる行動ですが、縄文土器は死者を葬る土器棺(どきかん)(埋甕(うめがめ)・埋設土器)としても多く用いられています。縄文という狩猟・採集・漁撈(ぎょろう)を基本とした自然相手の、いわば不安定な時代・・・ほぼ祈りによって「死」を克服せざるをえなかった縄文という時代にあって、生死が紙一重の死産を含めて、「死」は今より遥かに人々の身近にあり、常に意識せざるをえなかった重大な関心事であったのは間違いないでしょう。そうした「生と死」の折々に、土偶をはじめとした祭祀(さいし)の道具を用いた儀礼等が行われていたことは、既に考古学という学問が明らかにしています。 

*池ノ尻遺跡から出土した人体像把手付土器(土偶付土器)は、やないづ縄文館で展示・公開されています。また精細な画像は、以下から閲覧することができます。
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https://openokurairi.net/s/open_okurairi/item/1335#lg=1&slide=0