【会津の縄文時代をのぞいてみよう】5.会津は文化のクロスロード(交差点)~他地域との交流土器 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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【会津の縄文時代をのぞいてみよう】5.会津は文化のクロスロード(交差点)~他地域との交流土器 

2023.07.15

長島 雄一(ながしまゆういち)

 5.会津は文化のクロスロード(交差点)~他地域との交流土器

 次の図は縄文前期・中期の会津地方において、他地方の土器、また他地方の影響を受けた異系統の土器が出土した遺跡の分布図です。図中の1は火焔型土器と東北の土器の要素が融合した「会津タイプ」とも呼ばれる火炎系土器、2・4・8は新潟方面の影響を強く受けた火焔型土器、3は北陸系の土器、5は関東地方に分布の中心をもつ浮島式土器、6・7は東関東系の阿玉台式土器、9も関東地方の興津式土器です。

会津における異系統の土器

 他にも先述した会津美里町冑宮西・油田遺跡、南会津町上ノ台遺跡などでも前期の資料の中に関東の資料が混在している様子を見ることができます。特に関東地方に近い南会津地域の遺跡では前期後半~中期を通して関東系の土器が出土する割合が高く、特に前期後半の諸磯b式と呼ばれる関東
系の土器が比較的多く発見される傾向にあります。下郷町下平遺跡から出土した中期最終末の土器(加曾利EⅣ式土器)は、まさに関東地方と瓜二つで、この時期の東北南部への影響を強く感じとることができます。
 こうした多くの事例からわかるように、会津地方は縄文時代の各時期を通じて東西南北の文化要素が交錯する典型的な地域であり、いわば「文化のクロスロード=結節点・交差点」の様相を呈している地域と言えます。
 その交わり方をもう少し見てみましょう。東北地方南部の前期から中期にかけての土器編年では、先に述べたように宮城県大木囲貝塚を基準とした「大木式」という土器型式名を用います(第2回)。この大木式土器に他地域の土器が混じって出土したり、互いの文様要素が混在する形で表現されたりします。その混在のしかたをよく観察すると、時期によって微妙な違いが見られます。
 例えば前期に属する冑宮西遺跡や下郷町南倉沢・塩生遺跡、南会津町石橋・宮ノ下・上和田原・上ノ台遺跡、昭和村古屋敷遺跡などでは、関東地方の諸磯式・浮島式土器がほぼ本場関東の文様のまま、純粋な形で出土する傾向があります。中には下郷町南倉沢遺跡の様に前期後半の関東地方の土器が主体を占める遺跡も存在します。

 中期前半には東関東系の阿玉台式土器が南会津地方を中心に広範囲で出土するようになります。その中には胎土(土器の素地)に本場の阿玉台式土器と同様、雲母が混ぜられてキラキラ輝く装飾性の高い土器もあり、特に浅鉢型土器は綺麗に磨かれるなど丁寧に作られています。直接搬入されたものもあるかもしれませんし、生産地を割り出す胎土分析も必要ですが、アチラの技術をコチラでも用いる・・これも融合の一つの形と言ってよいでしょう。

 また中期中葉の土器(大木7b・8a式)を例にとると、東北由来の大木式土器の文様に新潟方面の火焔型土器(馬高式とも呼ばれたりします)の文様要素が色濃く取り入れられ、中には口縁部は立体的な火焔型(新潟)、しかし胴部は大木式に多い縄文のみとするもの(写真)など、一個の土器の中に両地域の文様要素が融合する会津独特のタイプが生まれます。新潟の信濃川流域に分布する火焔型土器と、その分布域周辺部に分布する火炎系土器についても、地元研究者等によって編年作業など精力的な研究が進められています。

 このように縄文時代のなかでも、時期によって交流の姿は少し異なっていることがわかります。この「交錯」「交流」の詳細な考古学的検討によって、他地域の土器との同時性や土器の時間的変化の把握(編年作業)、また地域色などを抽出することが可能となります。また粘土で作られる可塑性の高い土器や土偶などは、その時の流行や縄文の人々の考え方、心のあり様をよく示す遺物でもあるのです。

 奥会津の中期中葉の交流の例をもう少し紹介しましょう。三島町大石田居平遺跡からは新潟の火焔型土器の影響を受けた王冠型土器の把手部分やほぼ完形の深鉢形土器が出土しています。また只見町の舘ノ川・礼堂・深沢、金山町の寺岡遺跡、柳津町石生前遺跡などからも本場の火焔型土器と少し様相が異なる火炎系土器が出土しています。こうした大石田居平遺跡や只見町の諸遺跡の土器は、三条市長野遺跡などから見つかった土器と類似し、新潟との密接な関係をよく示しています。

 時期は全く異なりますが、金山町中川に所在する弥生時代の宮崎遺跡からは墓の副葬品とみられる大型の管玉等が出土しています。分析の結果、この管玉の石材の原産地は石川県小松市周辺である可能性が高いことが分かってきました。また柳津町石生前遺跡からは新潟県姫川流域が原産と推定される縄文時代のヒスイ(硬玉)製の大珠(首飾り 柳津町指定文化財)も見つかっています。
 三島町・只見町の土器、ヒスイ製大珠や宮崎遺跡の管玉などから会津地方への人やモノの流入ルートも考えると、交流ルートとして三条と只見をつなぐ八十里越、また六十里越の存在が浮かびあがってきます。