赤坂 憲雄(奥会津ミュージアム館長)
『区画整理士会報』227より
〈3〉
さらに、『ヨコハマ買い出し紀行』(1995-2006)という漫画を取りあげてみたい。
これはいっさいの説明が省かれているが、何か巨大な災害が起こったあとのディストピア世界を描いた漫画である。『アフタヌーン』という雑誌に連載が始まったのが、神戸の震災の半年ほど前であり、完結して五年後には東日本大震災が起こっている。巨大な災害のかたわらで、「災間」を無意識に予感しながら生かされていた漫画家の、いわば心象世界が表現されていたのではなかったか。わたしは実は、一人の編集者に紹介されて、この漫画に出会っている。送ってくれた第五巻には、簡単なメモのような手紙が挟まれてあった。そこには、「潟化」にかかわりずっと気になっていた漫画を思いだしたもので、と書き添えられていた。その後に、全巻を自分で買い揃えていたようで、しかし読む余裕もなく、その存在すら忘れていたのだった。
震災から三週間ほどが過ぎて、わたしは被災地を歩きはじめた。歩く・見る・聞くという、民俗学の作法に従ったまでのことだが、聞くという仕事はほとんどしていない。それでも、歩くこと/見ることだけは執念をもって重ねた。一万枚足らずの写真を撮ったが、整理もされずに行方不明になっている。
はじめて、南相馬市の小高で、どこまでも広がっている泥の海を見たときの、異様な心の波立ちは忘れない。原発から十五キロ地点、放射線量は意外に低かった。泥の海の下は水田だ、と聞いた。津波が押し寄せ、やがて引いていったが、濁った水が薄く田んぼを覆っていたのだった。それから、いくつもの泥の海に出会った。その下に隠された水田が、明治以降に潟を埋め立てて開田されたものであることを知った。泥の海の輪郭はきれいに、かつての潟(ラグーン)の形をなぞっていた。土地の人が、「浦に戻ったのさ」「江戸時代に還ったんだな」と語るのを聞いた。そこが潟であり、海であったことは、誰もが記憶していたのである。わたしはそこに、「潟化する世界」という言葉をかぶせた。
編集者はそれを知っており、『ヨコハマ買い出し紀行』という漫画を勧めてくれたのであった。震災から十数年が過ぎて、はじめて読むことになった。ほとんどのディストピアを描く映画や小説は、弱肉強食の世界の残酷をテーマとする。飽きるほどに眺めてきた。この漫画は残酷とはかけ離れた、あくまで静謐な、災後を生き延びた人々の日常を淡々と描いている。どこか『渚にて』を思わずにはいられないが、それは核による最終戦争の手前、いわば災前を生きる人々の静かな物語であるから、まるで異なった状況設定である。いずれであれ、この漫画はとても寡黙であり、物語の全貌があきらかに語られることはない。何が起こったのかは、最後まで明かされることがなかった。
舞台は西の岬に、低い木立ちに囲まれて建っている、小さなコーヒー屋さんである。すぐ裏手の崖の下には、入江のような海が広がっている。店の主人は若い女性であるが、ロボットのようだ。コーヒー豆の買い出しのために、バイクで横浜へと向かう。途中の道は荒れており、真っすぐには進めない。道路が海に没していて、立ち往生する。ガードレールや電柱、道路標識、遠くの家らしき建物が水のなかに、なかば沈んでいる。地図を眺めながら、「年々 海が上がってくるみたい」と呟く。地図からは、海がしだいに陸地を浸食してゆく様子が見て取れる。
かつての横浜市街は海の下で、丘の上がいまの横浜である。数年前までの「大都市ヨコハマ」は夢のようで、いまはゆったり時が流れる「人の街」だ、という。ほんの数年前に、何か、日本列島の全域に及ぶような、巨大な天変地異が起こったらしいが、それはついに語られない。ともあれ、世の中はすっかり変わってしまった。「時代の黄昏が こんなにゆったり のんびりと来るものだったなんて 私は多分 この黄昏の世を ずっと見ていくんだ」とあった。ここまでが第一巻に語られていたことだ。おそらく、この第一巻の後半あたりで、漫画家は阪神大震災に遭遇している。神戸では津波の被害はなかった。
砂浜はほとんどが沈んでしまった。かつて車が渋滞した海岸道路は波をかぶり、閉鎖されて、通行止めになっていた。すっかり砂に覆われて、連なる街路灯だけが道であった残影を留めている。渚のラインは上がってゆく。いま、ここでしか見ることができない景色だった。どこでも、昔の街灯がたくさん残っていた。それは昔の人が残してくれた海の上の光の花だった。
あるいは、さいたまの国には、見沼入江に水神(みずがみ)さんが祀られている。舟に乗るように勧めた渡し場の男は、水神を拝みたいという旅人に、この先の海沿いだが、たぶんよそ様には見せねえと思うよ、と伝える。小高い森のなかで、人間の子どもにそっくりな、からだを白い綿のようなもので覆われた、生きている「入江の神さん」が、ひっそりと海を見降ろしていた。海に流された子どもであったか。見沼は大宮に近く、そこまで海蝕が内陸深くまで進んでいたことになる。縄文海進の時代のような景観が生まれていたわけだ。
ここまでが第三巻である。これ以上は触れずにおく。どこかで、高潮という言葉を見かけたことがあった。地球温暖化の影も射しているようだ。しかし、大きな背景が語られることはなかった。ただ、いま・そこに生きる人々の日常のかけらが拾われてゆくだけだ。しかし、深い味わいを感じさせる不思議な作品なのである。残酷なディストピアを「黄昏の世」として、そのままに受け入れようとする。やはり、この漫画は『渚にて』というSF小説に似ている。核の爆発のあとにも、生き延びた少数の人々は静かに日常生活を重ねてゆく。世界の終焉をいかに迎えるか、という問いと、もはや無縁ではいられない。
〈4〉
わたしは最後に、寺田寅彦の「天災と国防」(『天災と日本人』角川ソフィア文庫)というエッセイを思いださずにはいられない。寺田はさりげなく、たいへん示唆的なことを語っていたのだった。
寺田はいう。昔の人たちは過去の経験を大切に蓄えて、その教えに忠実に従おうとした。関東大震災のあとに、横浜から鎌倉へかけて被害の状況を見て歩いたが、丘陵のふもとを縫う古い村の家が平気で残っているのに、田んぼのなかの新開地の新式家屋はめちゃくちゃに壊れていた。関西の風害でも、古い神社仏閣などが傷んでいないのに、「時の試練」を経ていない新しい学校や工場が無惨に倒壊していた。
災害史によると、明治以前には、「時の試練」を経ていない危険が予想される場所に、集落が作られることは稀であった。古い集落の分布は、一見すると偶然のようであっても、多くの場合にそうした「進化論的の意義」が認められる。暴風の被害を瞥見して気づいたことは、停車場付近の新開地の被害が多い場所でも、昔からの土着と思われる村落の被害が意外に少なかった。寺田はいう、旧村落は自然淘汰という「時の試練」に堪えた場所に適者として生存しているのにたいして、停車場は気象的条件などをまるで無視して、ひたすら官僚的・政治的・経済的な立場から決定されているためではないか、と。東日本大震災の被災の現場でも、くりかえし目撃されたことだ。寺田の「時の試練」という言葉は、含蓄の深い、記憶されるべき知恵の結晶だと感じている。