「災禍の果てに」⑧⑨ | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

館長のつぶやき

「災禍の果てに」⑧⑨

2024.03.15

赤坂 憲雄(奥会津ミュージアム館長)

「災禍の果てに」〈8〉 北限の猪(河北新聞2020,12,17)

 かつて、宮城県丸森町は猪が棲息する北限の地であった。阿武隈ライン舟下りでは、コタツに入りながら丸森名物の「しし鍋」が食べられると聞いていた。予約なしでかなわず、川下りだけを楽しむことになった。年の暮れ、川沿いには昨年の台風十九号の傷痕が残っていた。猪は川を渡るんですか、そう、唐突に聞いてみた。何度も泳いで渡るのを見たことあるよ、と船頭さんは答えた。
 震災から一か月あまり、南相馬市にはじめて入った晩、神主の友人の家で猪の肉を焼いて食べた。冬の猟期に捕って、冷蔵庫にしまっておいた肉だという。この土地で捕れる猪は、しばらくの間は食べることができない。最後の猪の肉か。いくらか悲愴な気分であったことを思いだす。
 福島から宮城、山形と、野生の獣たちの肉を扱うジビエ料理は姿を消していった。東京電力福島第一原発の爆発事故にともない、宮城の県南でも駆除される猪が急増している。丸森町では年ごとに千頭以上を数える。事故のあとに、福島県では生息密度が高まって、県境を超えて宮城県側に猪の流入が加速している、そう、専門家は分析していた(河北新報2017,5,7)。
 筆甫(ひっぽ)で味噌造りを続けてきた太田茂樹さんを訪ねた。猪は毎日のように出る。黄昏のころだ。屋敷まわりに、葛の根やミミズを食べるために掘った穴が、たくさんあった。大豆がやられる。猪を追うためにデンボク(電気牧柵)も設置してきたが、最近増えている猿には役に立たない。田んぼは夜ごと、見回りが欠かせない。猪が踏み荒らした田んぼは、獣の臭いがする。米が臭くなるわけではない。
 東京生まれの太田さんは二十五年前に、大地に根ざした暮らしがしたくて移り住んだ。その大地が原発事故で汚(けが)された。生き方そのものを覆された。味噌の顧客は離れた。それでも、この地に家族とともに留まることを選んだ。だから、「子どもたちを放射能から守るみやぎネットワーク」を結成し、代表になった。国や県が推進し、「私たちも容認してきた」原子力政策、安全神話の弊害、その負の影響を子どもたちがもっとも多く受ける(河北新報2011,11,2)。その不条理から逃げずに、抗うこと。あくまで暮らしと生業に根ざしながら、覚悟とともに、そこに生きてあること。去りぎわに、二種類の味噌を買い求めた。
 その前日、県北西部の色麻町を訪ねた。そこでも猪による農作物被害が増えており、その対策の先進地として知られる。四十一キロを超える侵入防止柵が住民参加で設置されてきた。町のアドバイザーを勤める鈴木淳さんによれば、色麻町では今年は三十二頭の猪が駆除された。いまは猟期に入っている。全頭簡易検査では、放射性物質はほとんど検出されていないが、販売はできない。
 福島から汚れた猪が北上してきたと語られるが、個体の移動ではなく、面的に広がったと考えるべきだ、そう、鈴木さんは説明する。猪の分布域はすでに、岩手や秋田、さらには青森にまで広がっている。じつは、猪の北上は震災の以前から始まっていた。震災がそれを加速させたのだ。原発事故からの避難、過疎化の深まり、狩猟人口の減少、温暖化など、複合的な要因がからんでいる。
 近世の岩手では「猪ケガチ」といい、稲作の北上と大豆作の広がり、それゆえに増えた猪による被害が飢饉の一因になった。その猪が東北から消えたのは明治以降であり、昭和前期には北関東の山地が北限となっていた(いいだもも『猪・鉄砲・安藤昌益』)。いわば、丸森が猪の北限の地であったのは、戦後のほんのつかの間にすぎない。いま、北限の猪は津軽海峡を前にして、遠く北海道を眺めているはずだ。
 たしかに撤退の時代が始まっている。百年かけて、列島の人口は四千万人に減少する。山野河海の幸に支えられる暮らしの風景は、震災によって大きな傷を負った。現代風の猪垣(ししがき)なしには、農業それ自体が成り立たない時代へと、東北もまた到り着いた。人と野生との関係は変わらざるをえない。だから、いま、なにをなすべきか。新たな学びが求められている。

   ☆

「災禍の果てに」〈9〉和解(河北新聞2021,1,12)

 たとえば、風評被害を助長するというラベリングが施されると、なにか奇妙な反転が起こる。そこにあったはずの現実が一瞬にして、不透明な靄に包まれて見えなくなる。タブーの領域が広がる。どこか魔女狩りのように。とりわけ福島では、放射線量が年間20ミリシーベルトと1ミリシーベルトのあいだで宙吊りにされて、だれもが身も心もひき裂かれている。そのかたわら、風化がおそろしい勢いで進んでゆく。なかったことにしたいという、意識せざる願望の群れが、これ幸いと利用されて、震災の記憶はさらに遠ざかる。
 精神科医の中井久夫さんが、「記憶の風化ということ」というエッセイのなかで、「災厄の記憶は風化でなく浄化されるべきものだ」と述べていたことを思いだす。ここで浄化とは喪の作業、つまり、大切な人が亡くなったあと、「もはや永遠に去って呼び返せないという事態の理不尽さ」になんとか折り合いをつけようとすることだ。それが誰であれ、突然、「呼び返せない世界」に去っていった人とは、和解の機会が永遠に失われて、いつまでも悔いや負い目をかかえて生きねばならない。
 東日本大震災の被災地では、幾度となく幽霊譚を耳にした。仙台駅から乗せた客が、指定された海辺に着いたとき、姿を消していた、といったタクシー運転手の語りならば、きっと聞いたことがある人は多いだろう。
 なぜ、人は幽霊を見るのか。震災後に、ある精神療法の学会で幽霊譚に触れて講演をした。そのとき、著名な精神科医がこんなコメントを贈り物のようにくれた。これまで十人ほどの幽霊を見たと語る症例に出会ってきましたが、そのすべてが十歳前後の少年でした、それがひとつの例外もなく、父親を急死のかたちで失くしていたのです、きちんと別れをすることが許されなかった男の子は、父親と和解するために再会が必要だったのかもしれません、と。亡くなった大切な人との再会と和解を、気配や声の訪れや夢のなかの出来事として体験された方たちは、きっとたくさんいるにちがいない。
 ところで、最近になって、スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』という本を読み返していた。たとえば、残酷なもののイメージを瞑想の対象とすることには、どんな意味があるか。ソンタグはいう、「弱さにたいして自分自身を鍛えること」「自分をより強く麻痺させること」、そして「どうしようもないものの存在を認めること」。途方もない震災の残酷に曝されてきた。弱さを克服できたか、といえば疑わしい。心を麻痺させることなら、すっかり得意技だ。世の中は見えない、どうしようもないことばかりだと悟って、言葉がめっきり萎縮した。いま眼の前にあるのは、くりかえし上書きされ、かぎりなく透明になった残酷である。
 ソンタグはまた、自分が安全だと感じるところにいる人は無関心なのだ、という。この災害列島では、もはや安全な場所などどこにもない。あるいは、感傷というのは残忍さの嗜好とまったく両立する、ともいう。それに続けて、同情とか、かわいそうといった感傷について語られる場面は、なんとも読むのがつらい。同情はいつだって、ひそかな免罪符である。自分はその苦しみをひき起こしたものの共犯者ではないし、無力ではあるけれど無罪なのだと慰撫してくれる。あふれる善意が無責任と背中合わせであることを、忘れさせてくれる。だから、災害や戦争や殺人の政治学に翻弄される人々に同情するかわりに、かれらの苦しみが存在する地図の上にわれわれ自身の特権が存在しているのかもしれない、という洞察が求められる。
 災厄をめぐる残酷な記憶は、和解と浄化のためにこそ、痛みを超えて何度でも呼び返されねばならない。責任の所在を明らかにし、ふたたび同じ誤ちをくり返さないために。呼び返せない世界に去っていった人たちへの鎮魂を重ねながら、それでもいま・ここで、かれらとともに生きてゆくために。
 だから、苦痛と特権とが、残酷と和解とが織りなす大きな地図に眼を凝らさねばならない。