「災禍の果てに」②③ | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

館長のつぶやき

「災禍の果てに」②③ 

2024.02.01

赤坂 憲雄(奥会津ミュージアム館長)

「災禍の果てに」〈2〉共生(2020,6,11河北新聞)

 連休のころ、カミュの『ペスト』を読んでいた。その文庫本はじつは、東日本大震災のあとに書庫からひっぱり出して、近くの書棚に差しておいたものだ。震災直後の南相馬の状況を想像するための手がかりがありそうな予感があった。まるでペストの街のような景観がそこに転がっていたことを、どれだけの人が記憶していることか。コロナ禍が降って湧いたように始まってから、四か月ほどが過ぎた。われわれはいま、「自宅への流刑」(『ペスト』)をつかの間解かれている。いつ、また流刑地に戻されるかは、わからない。
 東日本大震災からコロナ禍へ。いまだ茫然としている。それでも、確認できたことはいくつかある。ひとつは、われわれの生きている世界が、数も知れぬ見えないモノに抱かれ、かれらとの多様な共生関係によってこそ支えられている、ということだ。
 新型コロナウイルスとの「戦い」はどうやら、人口の過半数を超える人たちが免疫抗体をもつにいたってはじめて収束し、「共生」というフェイズへと入ってゆくらしい。見えないモノを根絶やしに消し去ることはできない。だから、どこかで折り合いをつけるしかない。「共生」という概念そのものを、ときには非人間的に再編することを求められる。
 見えないモノにはたぶん、自然や環境に由来するものと、人為的につくられたものという、大きくは二種類が存在する。いや、そんな二分法はとっくに壊れているか。自然と文化とを分かつ境界は、すでに曖昧模糊としている。ウイルスだって、われわれの文明のありようと無縁に、こんなふうに暴れるとは思えない。新型コロナウイルスが猛威を振るうかたわらで、静かに種苗法をめぐる攻防が行なわれていた。偶然ではあるまい。生命を遺伝子レヴェルであやつる技術の影が射している。
 いまは、一万年の定住の時代の頂点にして、終焉なのかもしれない。遊動型の社会では、伝染病がはやれば、ただちに群れを解体して、それぞれに生き延びるために散ってゆく。きわめてシンプルな生存戦略であった。そうした離合集散をつねとする社会では、自粛や籠もりはありえない。それは腐敗と死を意味していた。コロナ以後には、やがて、家や会社や地域に縛られて生きることの自明性が剥がれてゆく。定住から遊動へ、逃げられない社会から逃げられる社会への転換は、すでに、やわらかく始まっている。
 思えばそれは、震災後の福島で起こったことにも繋がっている。そこに、複雑によじれながら生起していたのは、逃げられない社会の掟やモラルと、それに抗い、生き延びるために逃げようとする人々との葛藤であったか。東京電力福島第一原発の爆発事故がもたらした、放射能や放射性物質といった見えないモノは、むろん人間に由来する。それは形も色もなく、匂いもなく、気配すらなく忍び寄ってくる。ただ線量計によって数量化ができるだけだ。しかし、不安はそもそも数量化ができない。不安を周縁に祓い棄てながら、忘却の淵をたどり、いつしかなにもなかったかのように柵や壁が取り払われてゆく。もはや除染もせずに、避難指示がほどかれ、立ち入りが自由になるらしい。不思議な、倒錯にみちた情景である。
 この、見えないモノとの「戦い」は、いまだ始まったばかりだ。十年後の水俣では、有機水銀が原因であることすら認められず、「水俣病」という名前もなかった。いまも変わらず、弱き人々が巧妙に足蹴にされ、棄民として消されてゆく。だれひとり責任は取らない。それでも、あくまで非人間的に、見えない血を流しながら「共生」への道を探し続けるのか。

   ☆

「災禍の果てに」〈3〉 不可視化(2020,7,14河北新聞)

 気になってきたことがある。境界の不可視化、ないし無効化というテーマ。もはや、チェルノブイリにはいまも存在する三十キロの検問と、その内側に広がっているゾーンそのものが、福島には存在しない。いわば、ここでは境界そのものが、白々とした闇に呑みこまれてしまったのではないか。見えない放射性物質との「戦い」の現場がそこにあることが、あいまいに不可視化されてきた、ということだ。それはまた、原発事故というできごとの不可視化であり、事故がもたらした被害や不安の不可視化にも繋がっている。あたかも、なかったことにするかのような巨大な見えにくい暴力が、ひっそりと社会の表層を覆い尽くしている。
 しかも、そこにはヒロシマやチェルノブイリを語る現場に見いだされる、同心円の記憶と思想が存在しない。それとして明示されることすらないままに、いつしか無効化されてしまったのだ。爆心地からの距離において、悲惨の度合いが測られ、記憶のリアリティが認められることは、ない。同心円の思想そのものが不在なのである。その意味はしかし、けっして問われることもなく棄ておかれている。
 こんなことがあった。震災から三カ月が過ぎた頃に、某新聞に書いたわたしのエッセイは、二週間あまり掲載が保留・延期されたうえで、ひっそりと掲載された。南相馬の二十キロの検問を超える場面の五行ほどが削除されていた。まるで山中の飯館村から、いきなり南相馬市の海辺の小高にワープしたかのように、宙ぶらりんの気持ちになった。あのとき、顏の見えないデスクは、なにを隠蔽しようと足掻いていたのか。くりかえし遭遇した、メディアによる「検閲」のほんの一例にすぎない。
 そのとき、たしかに境界はむきだしに可視化されていた。二〇一一年四月二十日の夕暮れ、原発から十五キロの地点、小高の村上海岸に近く、われわれは車を停めた。世界の終わりのような風景が転がっていた。大きな線量計は〇・三七マイクロシーベルト/時を指していた。二十キロ地点の警察による検問は、不安を囲い込むための可視化された境界であったはずだが、その内側にはまだら模様に汚染が広がっていた。そのとき、わたしは同心円の思想が崩れてゆく予感をいだいたかと思う。
 そういえば、同じ頃、こんなこともあった。六月半ばであったか、福島県の復興ビジョンの大枠が定められて、地元の新聞の第一面に、「脱原発」の三文字がにぎやかに踊ったことがあった。しかし、東京の大手メディアではほぼ黙殺に近い扱いであった。はっきりと記憶している。原発事故の現場となった福島の人々が、血反吐を吐くような思いで選び取ろうとした「脱原発」という選択を、こぞって無視してみせたのだった。
 だから、福島の外にいる国民の大多数は、それを知らない。わたしは幾度となく質問してみたが、まともに知る人に出会ったことはほとんどない。その代わりに、「ふくしまの声が聞こえてこない」と、しばしば非難するように、憐れむように言われた。わたしは口には出さずに、あのとき、あの命懸けのふくしまの声を、あなたたちは黙殺したじゃないですか、と呟いた。あのとき、きちんとした応答がなされていたならば、と思うことがいまでもある。
 そうして、思いも寄らぬかたちで、汚染地帯を囲いこむ境界線が失われ、同心円は地図のうえからも姿を消した。中心もまた、あいまいに記憶の外縁に沈められていった。やがて、十年目の夏がやって来る。ふくしまの声に耳を傾けねばならない、黙殺に抗して。