【忘れ語り、いま語り】災禍の果てに① | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

館長のつぶやき

【忘れ語り、いま語り】災禍の果てに①

2024.01.15

赤坂 憲雄(奥会津ミュージアム館長)

 震災から十年の歳月が過ぎた2020年に、あらためて被災地を歩きながら考えたことを『河北新報』に連載しました。「災禍の果てに」と題された連載ですが、ここに掲載して多くの方に読んでいただければと考えました。2020,5,6 から2021,3,12までの月一回の連載でしたが、ここでは6回にまとめて掲載します。震災から十年後の歩行と思索の一端をお読みいただければ幸いです。

   ☆

「災禍の果てに」〈1〉2020,5,6
だれが渡って、どこに行くのか

 二月二十日過ぎ、久しぶりに北上川の河口近くを訪ねた。岸辺のヨシ原のなかに、熊谷秋雄さん(昭和39年生まれ)の姿があった。津波に洗われ、地盤沈下したために、ヨシ原はほとんど姿を消したが、いまは以前より良質なヨシが戻ってきている、という。
 震災の四月であったか、「雑草だからさ」と豪快に言い放った、秋雄さんの声がよみがえる。いまにして、いい言葉だな、と思う。自然にたいして、人間の力など弱く頼りないものだ。津波でヨシ原が全滅したと騒いでも仕方がない。こちらこそが自然に寄生し、そこから恵みをいただいているだけのことだ。荒ぶる自然が去れば、やがてヨシ原は再生を遂げる。雑草だからさ、ちっぽけな俺たちの意志や力なんて関係ない。人間が野生をコントロールできるなんて、あれを目撃しちゃったら、思えるはずないよ。そんな声なき声が聞こえた。
 熊谷産業は茅葺き屋根工事にしたがう会社だ。その工房には、秋雄さんの父、貞好さん(昭和9年生まれ)が待っていてくれた。八十代の後半になる。記憶は変わらず鮮やかだ。中学生のとき、猟銃を持ちだして白鳥を撃った、警官に追われて、舟でヨシ原に逃げた。やんちゃな少年の面影が、いまもある。
 津波で家は流され、すべてを失った。一枚の写真も、古文書のたぐいも、すべて流された。執着そのものがなくなったな、そう、ぽつりと貞好さんはいう。いまも、なんだか気分が落ち着かない。外見はどこが被災したのかわからぬほどに、元に戻ったように見えるが、現実はちがう。人も家族も集落も変わってしまった。高台に移転した家は狭くて、鍵をかけるようになった。ここから下流は河口まで危険区域となったから、集落はない。

   ☆

 翌日、大川小に着いた頃には、みぞれ混じりの荒れ模様になった。寒さに震えながら、手を合わせた。近くのプレハブ小屋のなかに展示されている、大川小とその近辺の模型図を眺める。はじめて訪ねた震災の年の四月半ば、壊れた大川小の校舎があるばかりで、周辺にはなにもなかった。そこはしかし、家々が建て込んで、町場をなしていたのだった。それが丸ごと消えた。
 長面へと向かった。震災後に何度か訪ねている。巨大な防潮堤が浦全体を取り囲んでいた。人工物だけの、異様な風景が、ただどこまでも見渡すかぎり広がっていた。かつて、そこにあったはずの家々、豚舎、田んぼや畑は、その面影をたどろうにも手がかりがなかった。長面浦は全域が災害危険区域になっている。
 その日、工事中で入れなかった長面出身の人々が、バスツアーではじめて入ったのだ。十数メートルはあるのか、防潮堤の上に登ると、風が強く、小柄なお婆ちゃんは飛ばされそうになった。そうして言葉もなく、怯えたように、荒涼とした浦の景観を眺めていた。防潮堤を越えて架けられようとしている巨大なブルーの鉄骨の橋が、遠くに見えた。
 それから、はまなすカフェで、女性たちが呟く声に耳を傾けていた。「いやぁ、びっくりした、前のまんまでいいのに。あんなに立派に作って」という声、また、「だれが渡って、どこに行くんだろうね」という声も聞こえた。たしかに、あの橋の向こうには人が暮らすわけではない、もう集落だってない。そこに、だれかの挨拶の声がかぶさって来る。「復興が進み、コミュニティや人の絆を大切に‥‥」。巨大な防潮堤を背負い、推し進めている力が吐きだす言葉だ。この隔絶はほとんど幻惑的ですらある。
 違和感の根っこに眼を凝らさねばならない。太宰治の『津軽』を思いだす。津軽の外が浜の海辺をたどりながら、太宰はそこに、人間に飼われ、手なづけられたことのない野生の景観を見いだした。「てんで、風景にもなってやしない。……絵にも歌にもなりやしない。ただ岩石と、水である」と書いた。わたしの眼の前に広がっていたのは、それとは真逆の、まったく野生の付け入る隙のない景観だった。どこにも人懐かしい匂いは存在しない。人間たちが巨大な技術の力によって、まったく反-野性的につくりあげた景観には、やはり風景はかけらも見いだされない。あらかじめ、絵にも歌にもなることを禁じられている、ただコンクリートと鉄だけだ。あの橋はいわば、人外境(じんがいきょう)へと誘いかける戻り橋であったか。
 亡くなられた梅原猛さんが唱えられた「文明災」という言葉が浮かぶ。文明災は地震や津波、そして原発事故に続く、復興の現場にも転がっている。石巻から女川へと、車を走らせた。それでもまだ、自然がときにもたらす巨大な災厄を制圧できると信じているのか。思いだしたように、そう呟かずにはいられなかった。
 いま、わたしたちは新型コロナウイルスの猛威にあえいでいる。東京五輪は一年間の延期となった。東北の震災からの復興は遠ざかり、人類がコロナ禍を克服したことを寿ぐ祭典へと、オリンピックの大義は付け替えられるらしい。分子生物学者の福岡伸一さんが洩らした、こんな言葉がよみがえる。ウイルスはわたしたち生命の避けがたい一部なのだから、「それを根絶したり撲滅したりすることはできない」(朝日新聞2020,4,3)と。いま、自然と人間との関係そのものを結いなおすための、たとえば共生の哲学が求められている。