赤坂 憲雄(奥会津ミュージアム館長)
2021年であったか、コロナ禍の京都で行なわれた国際的な写真展のために、依頼を受けて書いた文章である。「KYOTOGRAPHIE2021」と題された写真展はとても刺激的なものであった。友人である華道家の片桐功敦さんと対談を行なっている。「見えない現実、事後と痕跡を抱いて」というタイトルは、東日本大震災にかかわる体験についての、わたしの認識の核にあるものだと感じている。
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あらかじめ書き留めておくが、わたしは写真家ではない。写真という表現に関わってきたわけでもない。場違いにも、東北をフィールドにしてきた民俗学者にすぎない。
震災後、地震と津波、そして東京電力福島第一原発の爆発事故の現場を巡礼のように歩きつづけた。デジタルカメラで一万枚の写真を、ただ記憶のよすがとするために撮ったが、そこに人間はほんの数枚しか写りこんでいない。傷ついた物や風景ばかり。真っすぐに被写体になってもらったのは、一度きり、仙台の蒲生(がもう)干潟のお地蔵さんにお詣りに来ていた三歳の少女だけだ。現像されることはなく、すべては古いパソコンのどこか片隅に埋もれている。
四月三日の夕暮れ近く、はじめて宮城県石巻市の津波に襲われえぐられた街に入った。そのとき、デジタルの写真がわずかな緑と赤を残して、灰色がかったモノクロ写真に変わった。そのことに気づいたのは一週間後、福島県のいわきの海辺を歩いていたときだ。わたしの記憶のなかの風景もまた、色がない。色づいた桜の花の記憶すらない。やがて、色彩は知らぬ間に回復していた。特別な操作や加工はしていない。なにが起こっていたのか、納得のゆく説明を聞いたことはない。
被災地巡礼は翌年の秋まで続けた。その旅のなかで、いくつかのことに気づいた。そのひとつは、この世界はかぎりなくたくさんの見えないモノに満たされている、ということだ。わたしは悲惨や残酷の痕に向けてシャッターを押しつづけた。いまは、そうした傷痕の大半はあたらしい盛り土のしたに隠されてしまった。それら、ほんのつかの間、むきだしに転がっていた悲惨のかけらを写し取った凡庸な記録には、たぶん殴り書きのフィールドノートほどの意味もない。
とりわけ、福島の沿岸を歩いているとき、原発の爆発事故の痕跡がまったく残されていないことに、茫然とした。放射線や放射性物質はまったく映像的に捕捉できず、見えない悲惨や残酷であり続けるしかない。爆発の数日後に、原発から四十キロ離れた飯館村に降った雨にはピンクや紫の色が着いていたと聞いたことはある。わたし自身が目撃したわけではない。だから、訪れた場所、そこかしこで手持ちの線量計の数字を写した。この世界には、人間の五感でじかに捉えられる現実などわずかしか存在せず、膨大な、見えない現実がその表層を覆い尽くしているのだと知った。
なにをいまさら、と笑われることは承知のうえだ。すくなくともわたし自身は、そんな当たり前にすぎる事どもを再確認しておくことなしには、半歩だって前には進めない。スーザン・ソンタグが『他者の苦痛へのまなざし』のなかで、苛まれ切断された死体の描写、また魅力的な身体が暴力を受けるイメージはすべて、いくらかポルノ的であることを指摘していた。日本のメディア空間においては、そうした暴力の直接的な表現は身体とかぎらず、風景からも周到に排除されてきた。たとえば、風評被害の名のもとに。とりあえずポルノ的であることからは免れてきたのか。それが逆に、被災地の現実から人々を遠ざけ、悲惨を稀釈することに力を貸してきたのかもしれない。
思えば、わたしはたくさんの犠牲者が出た小学校の校庭で、泥にまみれたポルノ映画のDVDを見つけて、写真に収めた。津波で半壊になった家の隅っこでは、やはり泥まみれの文庫本を見かけて、拾いあげた。林芙美子の『放浪記』だった。写真に撮った。瓦礫のある光景を見かければ、数限りもなくシャッターを押した。棒切れにからまった下着や、手足のちぎれかけた人形、首のもげた地蔵に眼を奪われた。わたしはポルノ的であることから猶予されていたか。被災地に落ちていた物を家に持ち帰ったことは、一度もない。
震災の現場では、だれもが遅れてやって来て、それゆえに事後や痕跡に縛られていた。いや、ほんとうは膨大な影像が携帯電話などによって撮られ、広く流通してきた。もうひとつの現場が存在したのである。それらは災害のデジタルアーカイヴのなかに集積されてゆくはずだ。災害には従軍カメラマンは存在しない。かくして、事後に訪れ、痕跡に眼を凝らすしかない写真家たちは、孤独な漂流をそれぞれに開始する。
コロナ禍となると、いよいよ現実は不可視化の度合いを深めている。たくさんの感染者の姿や、そこに生まれた東日本大震災と変わらぬ数の死体は、家族のまなざしからも遮断されて、数字や、噂話のレヴェルでしか伝わってこない。ドキュメンタリー映像など見たこともない。緊急事態下の街に写真家はいるか。新型コロナウイルスの静止画像ならば、くりかえし眺めているが、それがもたらした災厄の風景は記録には残らない。ウイルスの現場には、そもそも事前も事後もなく、予兆も痕跡すらも、ない。渦中に生かされているのに、現実は見えない繭に覆われて、ただ恐怖や不安としてしか体験することが許されていない。
世界はたしかに、見えないモノに覆い尽くされているようだ。そこに日々生起している見えない現実と、いかに対峙するのか。写真という表現メディアはやがて、かつて絵画が体験したように、現実の模写という役割から解き放たれて、見えない現実との邂逅へと赴こうとしているのか。現実の裏側に沈められている、名づけがたきもの、浮遊するもの、頼りなきものたちのかたわらへ。