【忘れ語り、いま語り】 鶴見和子さんについて | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

館長のつぶやき

【忘れ語り、いま語り】 鶴見和子さんについて 

2023.09.01

赤坂憲雄(奥会津ミュージアム館長)

 これは未発表のメモとして手元に置かれてあったものだ。「鶴見和子さんについて  2018,10,23」と題されているが、いつの執筆か、確認できない。そのままに掲載する。

2015,7,31 山百合忌におけるスピーチから。
『地域からつくる』(藤原書店、2015,7,30)には、
鶴見さんとの、三度目の、最後の対談が収録されている。
対談集を編むにあたって、九年間、放っておいたので、読むのが怖かった。
読んでみて、鶴見さんが聞き手に徹している姿に、呆然とした。
「今日は、あなたから、内発的発展論について、その限界と、これからの課題について聞かせてもらいたいの」と、課題を突き付けられた。
ほとんど大学院のゼミか何かのように。
眼の前の鶴見さんは、定規を当てながら、メモを取られている。
わたしは聞き書きや、対談などの場で、聞き手に徹することを学んで来た。
耳になる、必要がなければ、話さない。
でも、そこでは語ることを求められた。
ふだんは語らないことを、語ることを強いられた。
大きな学者の前で、裸にされてゆくような気になった……。
二つのタイプの聞き書きがある、攻めるか、受けるか。
鶴見さんは前者、わたしは後者。

乞食と産土をめぐって。
鶴見さんは、乞食になりたい、というもっとも根源的な願望を語られています。
弟の俊輔さんと二人で、鶴見さんは「乞食ごっこ」をしたという。
乞食は誰にも羨まれることのない、究極の弱者であるが、それゆえの自由がある。
鶴見さんは生まれついての強い人、持てる人ではなかったか、と思う。
だから、幼年期から「捨てること」を学ばねばならなかったのではないか。
いかに捨てるか、何を捨てるか、を幼い子どもが思い悩むのだ。
だから、倒れたとき、ホッとされたのではないかと、わたしは想像する。
病院のベッドに横たわり、身じろぎもできず、しかし、明晰な思考だけは許されたがゆえに、鶴見さんははっきりと悟ったのではなかったか。
これからは究極の弱者となって、みずからの思想を根底から検証し、再建することができるかもしれない、と。
霊力も何も、すべてを奪われながら、山姥として生きること。
強者のままに舞台を降りてはならない、と無意識に感じていたはずだ、
そう、わたしは根拠もなく思う。
老いること、弱者になることを、喜んで引き受けてみたいと、ひそかに思わなかったか。

 片身(かたみ)麻痺の我とはなりて水俣の痛苦をわずか身に引き受くる

かつて、鶴見さんがが語った乞食論を思い出さずにはいられない。
乞食とは、異質なる者たちが交わす対等な関係=交易である、という。
そして、乞食願望のかたわらには、産土への憧れが転がっていた。
最後の対談のなかで、鶴見さんは「あなたの産土は福島か」と執拗に問われた。
産土とは、生まれ育った故郷であり、大地のどこか一点に定住することだ。
しかし、乞食は、その産土を奪われ追放された人々であったはずだ。
乞食になること、産土を持つこと、この二つの願望は原理的に両立しえない。
鶴見さんがそれを自覚されていなかったとは、むろん思えない。

 三砂ちづるさんからのメール(2015,7,31)より
 すばらしいお話でした。
 今まで山百合忌できいたどんな話よりもよかったです。
 本、買いました。拝読します。
 それにしても「乞食と産土が憧れ」とは。
 鶴見和子氏は、まさに、あでやかな女の姿の男、ですね。
 女は子どもを育てなければならないから,乞食には憧れません。
 女にとって、愛する人がふるさとだから、産土は、いらないのです。
 ふるさともいらないし、語れない。
 このことについては、またゆっくり書いてみたいと思っています。

東日本大震災が起こってしまった。
これからは、誰もが故郷を喪失し、どこにいてもそこを異郷として生きざるを得ない時代が始まる。
「あなたの産土は福島か」と、鶴見さんはこだわられた。
僕は産土も、故郷も持たない、日本語でしかモノを考えることを知らない民俗学者だ。
しかし、震災後に、福島を故郷として選び直したいと思った。
とはいえ、それもいくらか変化したかもしれない。
故郷に縛られるよりも、それぞれの異郷を故郷として豊かに生きることを学んだ方がいい、と。

「あなたは導師なのよ」という、鶴見さんの言葉が思い浮かぶ。
謙遜ではなく、否定した、人をどこかへ導くことなんて出来ない。
震災のあと、ほんのつかの間だが、それを役割として引き受けねばならないと感じさせられた時期はあったが、うまく行くはずはなかった。
わたしにはそもそも、指し示すべき未来などない。
しかし、そこに留まり、ともに思い悩み、考え続けることはできる。

最近読んだ、永野三智さんの『みな、やっとの思いで坂をのぼる』は、素晴らしい本だった。
水俣病の患者さんたちに寄り添い、その語りに耳を傾け続けるのだが、これは言葉への信頼を取り戻すための本だ、と思った。
「人は食べずには生きていけない。食べることは生きること、水俣病の原因はその幸せな食卓にある」といった言葉には、強い喚起力がある。
鶴見さんも水俣で、患者さんたちに聞き書きをした。
もし生きていたら、どんなにか永野さんのこの本の刊行を喜んだことか。
この本のなかには、無力さに泣きたくなると訴える永野さんに、石牟礼道子さんがこんな言葉を贈与する場面がある、
「悶(もだ)え加勢(かせい)すれば良かとですよ」と。
苦しんでいる人がいるときに、その人の家の前を行ったり来たり、ただ一緒に苦しむだけで、その人は少しだけ楽になる、ということだとか。

倒れてからの鶴見さんもまた、
ひたすら「悶え加勢すること」を学び直していたのかもしれない。
何もできず、悶えながら、苦しみや痛みのかたわらに留まり続けること。
 心身の痛苦をこえて魂(たま)深き水俣人(みなまたびと)に我も学ばん