【忘れ語り、いま語り】 赤についての随想 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

館長のつぶやき

【忘れ語り、いま語り】 赤についての随想 

2023.07.15

赤坂 憲雄(奥会津ミュージアム館長)

 これもまた、パソコンのなかに残っていた文章である。どこに寄稿したエッセイなのかは、もはや記憶にはない。これがどのように、奥会津のいまに繋がってゆくのかは、わからない。わたしは奥会津の「赤」を探している。

 日本文化においても、赤は多義的な色である。ただし、西洋的な色彩のシンボリズムのもとでの、神と悪魔の二元論のようにまったくひき裂かれた白と黒のあいだに配される、曖昧にして過渡的な、それゆえに危うく、触れてはならない禁忌の色彩としての赤とは異なっている。日本文化のなかの白と黒は、そもそも二項対立的な関係にはない。そこでは白/赤/黒の三原色は限定的なものだ。したがって、赤は白と黒のはざまにひき裂かれてはいないし、つねに禁忌の色と見なされているわけでもない。
 たとえば、縄文・弥生から古墳時代にかけての古代の赤は日常生活のなかではなく、祭りや死者の埋葬にかかわる、ハレの場に見いだされる聖なる色彩であった。色材としては朱(水銀朱)が霊魂に関係する場所や物に、ベンガラ(酸化鉄)が祭祀に使われるといった区別が存在した。だから、色彩としての赤は、自然のなかから抽出された色材それ自身のもつ象徴的な力や性格と無縁ではなかったにちがいない。
 柳田国男の『遠野物語』は、色彩についての情報が過剰なほどに盛り込まれた、どこか異例なテクストである。それは、ほかの昔話や伝説を集めた本をひもといてみれば、すぐにわかることだ。
 『遠野物語』の三原色は、とりあえず白/赤/黒である。しかし、それはまるで西洋の色彩観とはかけ離れたものだ。たとえば、白は清浄や幸運、聖なるものをもっぱらに表わすが、黒はそうした白と対比されるような、不吉・不浄、死や災厄といったものとつながる禍々しい色ではない。すくなくとも強い負の色ではない。それにたいして、赤は日常に裂け目をもたらす超越的な色であり、魔術的な危険な状況にかかわると同時に、ときには人間に幸いをもたらすこともある。正負のあいだを往還する、かぎりなくダイナミックな聖なる色彩なのである。
 東北の風土には縄文の匂いがする。だから、東北出身の、赤色にたいする偏愛を示す文学者たちがすくなからず存在することに、関心をそそられて来た。斎藤茂吉や寺山修司といった名前を挙げてみればいい。茂吉の『赤光』などは、まさしく赤が氾濫を起こしているような歌集である。北には、赤の風土が見え隠れしている。