遠藤 由美子(えんどうゆみこ)
夏が終わろうとする、透き通った風がそよぐ夜のことでした。
広い畑に囲まれた小高い森は、一枚の黒い影絵のように、明るい夜の空に浮かんでいます。
今しがたまで歩き回っていたタヌキやキツネも、夢を見ています。気の早い数匹の虫たちが、夜露にぬれながら時折ひっそりと羽をすり合わせて、澄んだかすかな音をたてているばかりです。
でも、一羽のコマドリが、まだ眠っていませんでした。
いつもの合歓の木にとまって、下の笹群れからから聞こえるかすかな音をじっと聴いているのです。
コマドリは今までずぅっとひとりぼっちでした。
ようやく空を飛べた日の朝、お母さん鳥は子どもを守ろうとしてハヤブサに食べられてしまったのです。それ以来心に鍵をかけて、挨拶を投げ合う友だちさえほしいとは思わなかったのでした。
ひとりぼっちの日々をどのくらい過ごしたのかも覚えていません。
ただ分かっているのは、自分の命がもうすぐ消えようとしていることでした。
かすかな風が樹下を通るたび、笹の葉の上の露がこぼれて、パラパラと小さな音をたてます。コマドリは、露の雫のこぼれる音がとても好きでした。月の明るい晩には、たくさんの雫がまるで宝石のように光ります。月に照らされたまぁるい露の玉は、薄いガラスで出来ているようでした。夜は目が見えないはずなのに、耳を澄ましていると不思議に見えてくるのです。だから、笹群れの中に立つ細い合歓の木が一番好きでした。
今夜も月の明るい晩でしたが、コマドリはいつものように露が光るのを見ようとはしませんでした。自分の涙を見るようで悲しかったからです。
それにもう、露がこぼれる音も聴こえなくなっていました。固くて細長い合歓の葉っぱに頭を載せて、落ちないように枝にとまっているのがやっとでした。
コマドリは、わずかに残された命が刻々と消えていくのを感じていました。
怖くて、寂しくて、それに何だかとても寒くて、震えていました。震えながら、今まで一度も高らかにさえずった記憶がないことを考えていました。どうしたらお母さんのように美しく鳴けるのか、知らなかったのです。友だちと鳴き交わしたこともありません。そのことが、今、とても寂しくてなりませんでした。
「僕も一度でいいからお母さんのようにきれいな声で鳴いてみたかったな」。
今になって、それがとても大切だったことに気が付いたのです。
笹はまた、パラパラと露をこぼしました。
その時コマドリは、遠い空の上で誰かが見つめている温かい眼差しを感じました。そんなことは初めてでしたから驚いて、重い頭をやっと上に向けました。
満天の空に、散りばめられた露が光っています。夜の空を見ることなど、ましてや、空にも宝石のような露があることなど、ちっとも知らなかったコマドリは本当に驚きました。そこには、笹の葉の露の何百倍もの雫が、空一杯に光りながら震えるようにまたたいています。
首を細長い葉っぱに預けたまま、コマドリは空を見つめました。そうしていると、なぜだか涙があふれてきます。
まん丸い目に涙が広がると、空の露は細長く大きくなりました。
そのたくさんの露の中でも、合歓の木の、上から二番目の枝のすぐ下にある露が、なんだか懐かしく思えてなりません。不思議に思いながら見つめていると、どこからか声が聴こえました。
「ここにいるよ、コマドリ君」。
コマドリはずり落ちそうな足を踏ん張って、一層強く輝きだした一つの露を見つめました。
「ボクのことを呼んだんだろうか…」。
そう思ったとたん、露が応えました。
「そうさ。君を呼んだんだよ」。
今までずっと話していたように露がまた応えました。
「君はだぁれ」?
「僕はたくさんの星のひとつさ」。
「星?なんていう名前なの」?
「君が勝手につけてくれればいいんだよ」。
「じゃ、ルウって呼んでいい?僕のお母さんは、いつもルウーって鳴いたんだ」。
「ウン。ルウか、気に入ったよ」。
ルウの星はかすかに笑ったように見えました。肩の力がいっぺんに抜けるほどやさしいほほえみでした。
コマドリは死にかけていましたが、心はようやく活き活きと生き始めたようでした。ルウと話がしたくてたまらないのです。
「ルウ、僕、きっともうすぐ死ぬんだ。とても怖いよ。それなのに、今まで誰とも話をしなかったなんて、とても寂しいよ」。
「どうして?今、僕と話してるじゃないか」。
コマドリはハッとして、閉じそうになる目をまた大きく開きました。ルウの星は一層強く光っています。
「コマドリ君、僕が見える」?
「うん。キラキラしてとってもきれいだよ」
コマドリは本当にそう思いました。
「僕、本当はいないんだよ」。
「いないって、どういうことなの?ルウ」。
ルウはさっきよりもっと優しい眼差しでコマドリを見つめて言いました。
「僕は、ずっと、ずっと、ずぅっと昔に消えちゃったからさ」。
コマドリは何だか訳が分からなくなって、妙に落ち着かなくなりました。あんなに美しく光っているのに、いないなんて信じられませんでした。
「だって、ルウは今、そこで光って見えてるよ」。
「僕は光だけど、君が見てくれないといないことと同じなんだ」。
その時、又かすかな風が梢の下を渡って行ったようでした。さっきよりもたくさんの露が、パラパラ、パラパラと通り雨のような音をたてました。
「でも、君が光っていたから、君が居ることがわかったんだよ、ルウ」。
「光ってることは、自分じゃ見えないものなんだ」。
コマドリは必死で目を開けて、ルウの美しく輝く白い光を確かめるように見つめました。
「とってもきれいだよ、ルウ。ルウは今、そこにいるよ。僕はちゃんと見えるもの」。
「そうだよ。僕たちは今夜、やっと出会えたんだ、君が僕を見てくれたからね」。
「じゃ、ルウは僕のことも見えるの」?
「あたりまえさ。今までだってずっと見てたよ。君が気付かなかっただけさ。君もキラキラ光ってとってもきれいだよ」。
「本当?本当に僕、光ってるの」?
「だから言ったろう。光ってるのは自分じゃ見えないんだって」。
ルウはじれったそうに一、二度光を揺らしました。
「でも、僕が死んじゃったら、もうルウと会えないの」?
「いつだって会えるさ。君が僕に気づいてくれたから、いつだって話ができるんだ」。
コマドリの小さな体は今にも枝からずり落ちそうで、懸命に足を踏ん張ろうとしても支えることが出来なくなっていました。ルウが次第にかすんでいきます。
コマドリは見えない目で必死にルウを追いかけました。
「行かないでよ、ルウ。お願いだからそばにいてよ」。
話したいことがもっともっとありました。それにもう、一人ぼっちにはなりたくなかったのです。ルウの姿は見えなくなりましたが、声だけははっきりと聴こえました。
「僕を呼んでごらん、コマドリ君。声を出して呼んでごらん」。
コマドリはルウを信じました。
そして一生懸命呼びました。
「ルウーーーーー」。
お母さんと同じ鳴き声でした。コマドリは、初めて自分の声を聴いたのです。
コマドリの体はユラリと大きく前にかしぐと、そのままゆっくりと笹の葉群れの上に落ちていきました。
笹からこぼれた露のしずくが、いくつもいくつも、閉じたコマドリの羽に降り注いでいます。
東の空が朱に染まってきていました。