雛流し | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

小説

雛流し

2025.03.01

菊地 悦子(きくちえつこ)

「桃の節句、雛祭りの今日、淡島神社では雛流しの神事がおこなわれました」
 テレビは、三艘の木舟に山と積まれた雛人形が、和歌山の暖かそうな春の海にぷかりぷかりと浮かんでいる風景を映し出していた。女性アナウンサーが、その伝統行事のいわれを報じている。
「あわしまさんって、この淡島神社のことだったんだわ」
 昼食の用意の手を止め、テレビ画面を見つめながら、幸子は思わず小さく叫んでいた。あの日、それは特別な想いを込め、紙雛を流したんだっけと思い出す。大脳皮質のどこかに大切に保管されていたらしい遠い記憶は、当時のひりひりとした痛みまで伴っている。

「なあ、雛流しって、なんでやるか知ってる?」
 中学二年の三学期、ある日の昼休みだった。時折吹雪く鈍色の空を、教室の窓からうんざりしながら見上げていると、明美がいったのだ。
 幸子たちの村では、桃の節句に雛人形を飾ることはない。そのかわり、娘たちはそれぞれに紙雛を折り、三月三日に川に流した。
「女の子が健康で幸せになりますようにじゃないの?」
 雪に覆われた校庭では、隣接する小学校の校舎から飛び出してきた子どもたちが、歓声を上げている。
「まあそうなんだけど、もうひとつ。紙雛を一番早く流せたら、好きな人と両想いになれるんだって」
 明美はいかにも秘密めかしていうものだから、退屈していた女子たちはみんな色めき立った。
「一番早くって、どこまで? 誰が一番って、どうやって分かんの」
「先手必勝。とりあえずみんなが見てる間の一番だよ」
 先手必勝の意味がふさわしいかどうかはともかく、明美は自信たっぷりに断言した。刺激的な話題を提供するのは、いつも明美だ。
「よーし、がんばっぺ!今年の雛流し」
「それまでに好きな人、決めんなんねぇ」
「あれぇ? ケンイチはなじょした?」
 普段は気を付けていても、興奮するとつい方言がでる。いったん誰かが方言で話し始めると止まらなくなるのはいつものことだ。
「ケンイチかぁ、あれは、ずねぇばっかでおんずぐね」(大きいだけで中身がない)
ばあちゃんっこの悌子が、女子中学生らしからぬ貫禄の一言を放ち、少女たちは笑い崩れた。

「テンゴ! テンゴってば」
 駅の方からやってくる姉の昭子に見つからないように、慌てて郵便ポストの影に隠れたのだが遅かった。
「あんた、何やってんの。急に逃げ出して」
 顔をしかめる昭子の隣で孝が笑いながら、「テンゴ、久しぶりだな、元気かぁ」と声をかける。幸子は、「ああ」とも「うん」ともつかない返事をし、「テンゴじゃないから」といって駆け出した。そんな自分が、みっともなくて子どもっぽくて、我ながら情けない。
 幸子よりみっつ年上の昭子と孝は、同い年で家も近く仲がいい。幸子は幼い頃から、いつもふたりの後をついて歩いた。その様子に、周りは幸子を「テンゴ」と呼んだ。昭子と孝にくっつく0.5だ。
 頭がよく快活な昭子と優しい孝のテンゴであることに、幸子は満足していたし、ふたりが中学の生徒会長と副会長に選ばれたときには、得意でたまらなかった。
 しかし昭子と孝が、列車で一時間ほどかかる町場の高校に進学すると、テンゴという立ち位置は必然的かつ強制的に終了し、幸子は中学生になった。もう子どもではないという自意識と、庇護を失う寄る辺なさを行ったり来たりしながら、幸子は、遠くなった孝に密かに恋をした。姉に恋しているだろう孝を思慕することで、テンゴの立場にしがみついていたかったのかもしれないと、幸子は後から思う。姉への憧れとそれと同じくらいの劣等感は、ある種の屈折となり、十三歳の初めての恋心を、たぶんいっそうかきたてた。昭子と孝は、およそ公然のカップルで、幸子の横恋慕など入る余地もないというのに。

 三月とはいえ、雪国の春はまだ遠い。桃も桜も、時折の日差しで痩せてきたつららをなおも垂らし、雪解け水を方々から集めた川は、長い冬を抱えたまま西へ西へと流れていた。
 紙雛を大事そうに抱えた娘たちが、雪を踏み踏み集まってきた。前の晩に、祈りを込めて折った紙雛だ。何枚かある千代紙の中から、幸子が橙に朱と紺であしらわれた牡丹柄を選ぶと、「さっちゃん、大人っぽいの選んだなぁ。去年は赤と黄色のチューリップだったのに」と、感心したように昭子がいった。最近、昭子は幸子をテンゴと呼ばないように気を付けている。昭子はといえば、毎年、桃の花模様と決まっていた。
「姉ちゃん、またそれ?」
幸子が聞くたび、「桃の節句だもの」と、いつも同じ答えが返ってきた。
 昭子や幸子のような千代紙派が多数だが、中には和紙を草木で染めた手の込んだものもあった。それぞれの雛人形は、みな小さな白い顔に島田風の髷をのせ、小さな餅を小さな布で包んで背負っていた。
「流すよぉ」
誰かの合図で、娘たちは、雛人形を藁の舟に乗せ、川へ送り出す。藁の束を結わえた簡素な舟もまた、娘たちの手作りだ。
 色とりどりの紙雛を乗せた舟が、いっせいに川に放され、ゆっくりと川面をすべってゆく。
「あわしまさままで、流れて届け~」
 娘たちが口々に叫ぶ。
 いくらもしないうちに、昭子の舟が、くるりくるりと回り始めた。幸子は口から心臓が飛び出しそうになる。藁がゆるゆるほどけ、昭子の紙雛が、川面に落ちた桃の花のようにぷかりと浮かんだ。

 ただ、ほんのちょっとだけ遅くなればいいと思っただけなのだ。姉ちゃんはいつもいい思いをしているのだからと。昨夜、幸子は昭子の舟を手に取り、結わえてあった藁を少しだけゆるめた。まさか、こんなことになるなんて。爪が食い込むほど掌をきつく握りしめ、おそるおそる昭子を見る。
昭子は身体を二つ折りにして笑っていた。
「えー、なんでぇ。またぁ?」
 昭子の舟がばらけるのは、一度や二度ではなかったらしい。舟をつくるのが苦手なのだと昭子はいい、「自力でいけよ~ あわしまさままで泳いでいけ~ がんばれ~」と叫んでいる。本当にそうなのか、何もかも知っていて、わざとそんなことをいったのか、幸子にはわからなかった。
 と、その時だ。一体の紙雛を乗せた笹の舟が、するすると川面を流れていった。藁の舟たちを追い越し、圧倒的な速さで流れていった。明美の舟だった。明美は「先手必勝!」と、誇らしげに親指を立てた。

 恋をかけた紙雛流しは、それが最初で最後となった。翌年は高校合格を願って流したし、高校生になると、地元の行事に参加することもなくなった。紙雛流しそのものが、それから何年もしないうちに行われなくなってもいた。
 その後、昭子は東京に、孝は県内の大学にそれぞれ進学した。孝と明美が付き合っているという噂が流れたのはその頃だ。昭子は大学を卒業すると地元の高校の教師になり、一度も結婚することなく、定年まで勤めあげた。今もすこぶる元気で、ボランティアや海外旅行に飛び回っている。
「お父さん、お昼ですよ。起きて」
 幸子は、鍋焼きうどんを食卓に並べると、顔の上に新聞を広げたまま、うたた寝をしている夫の孝に声をかけた。