菊地 悦子(きくちえつこ)
「桃の節句、雛祭りの今日、淡島神社では雛流しの神事がおこなわれました」
テレビは、三艘の木舟に山と積まれた雛人形が、和歌山の暖かそうな春の海にぷかりぷかりと浮かんでいる風景を映し出していた。女性アナウンサーが、その伝統行事のいわれを報じている。
「ねぇ、あわしまさんって、この淡島神社のことだったんだわ、知ってた?」
昼食の用意の手を止め、テレビ画面を見つめながら、幸子は夫に声をかけたが返事がない。定年で退職をしてから、夫は昼間でもよくうたた寝をしている。幸子は、小さくため息をついた。考えてみれば、夫が桃の節句のことなど知っているわけもない。
テレビはすでに次のニュースに代わっていたが、幸子の脳裏に遠い記憶が蘇る。箪笥の奥に仕舞い込んだまま、すっかり忘れていた大切な着物がひょいと出てきて、昔の物語を語りだすように、それは匂いと手触りと、痛みまでが伴っていた。
「なあ、雛流しって、なんでやるか知ってる?」
中学二年の三学期、ある日の昼休みだった。時折吹雪く鈍色の空を、教室の窓からうんざりしながら見上げていると、明美がいった。
幸子たちの村では、桃の節句に雛人形を飾ることはない。そのかわり、娘たちはそれぞれに紙雛を折り、三月三日に川に流した。
「女の子が健康で幸せになりますようにじゃないの?」
雪に覆われた校庭では、隣接する小学校の校舎から飛び出してきた子どもたちが歓声を上げている。それを眺めながら、幸子が応えた。
「まあそうなんだけど、もうひとつ。紙雛を一番早く流せたら、好きな人と両想いになれるんだって」
明美はいかにも秘密めかしていうものだから、退屈していた女子たちは聞き耳を立てて集まってきた。
「一番早くって? 誰が一番って、どうやってわかんのよ」
「先手必勝。とりあえずみんなに見える間の一番だよ」
先手必勝の意味がふさわしいかどうかはともかく、明美は自信たっぷりに断言した。
「それに、もしもだよ、恋敵がいたとしたら、早い方が恋の勝利者ってわけ」
刺激的な話題を提供するのは、いつも明美だ。
「そういうことなら、よーし、がんばっぺ!」
「あれ、誰か好きな人いんだっけか?」
「だから、雛流しまでに見っけんだべしたぁ」
少女たちは、はしゃぎながら男子たちの品定めを始めた。普段気を付けていても、興奮するとつい方言がでる。いったん誰かが方言で話し始めると止まらなくなるのはいつものことだ。
「ケンイチはなじょ?」
「ケンイチかぁ、あれは、ずねぇばっかでおんずぐね」(大きいだけで中身がない)
ばあちゃんっこの悌子が、女子中学生らしからぬ貫禄の一言を放ち、少女たちは笑い崩れた。恋敵という言葉が微かな棘のように胸に刺さったまま、幸子も少し大げさに笑った。
その日の部活帰り、友人と別れた幸子が、ズックカバンを重たげに尻の上に乗せ、積もった雪をぎしぎし踏みながら歩いていると、ちょうど列車が着いたところらしく、駅の方から、人々がぽつぽつとやって来る。その中に、姉の昭子と孝の姿を見つけ、幸子は慌てて郵便ポストの影に隠れた。最近、幸子はふたりを避けるようになっている。
「テンゴ! テンゴってば! あんた、何隠れてんのよ。変な子だねぇ」
顔をしかめる昭子の横で孝が笑いながらいった。
「テンゴ、久しぶりだな、背伸びたなぁ」
幸子が孝にこんな風に声をかけられるのは、確かに久しぶりで、とっさに何と応えていいかわからない。幸子は「ああ」とも「うん」ともつかない返事をし、「テンゴじゃないから」といって駆け出した。詰襟に学生カバンを抱えた孝は、とても大人っぽく見え、それにひきかえ、姉のお下がりのジャージに、くたびれたズックカバンを肩かけしている自分の姿が、恥ずかしくもあった。
幸子よりみっつ年上の昭子と孝は、同い年で家も近く仲がいい。幸子は幼い頃から、いつもふたりの後をついて歩いた。その様子に、周りは幸子を「テンゴ」と呼んだ。昭子と孝にくっつく0・5だ。
頭がよく快活な昭子と優しい孝のテンゴであることに幸子は満足していたし、ふたりが中学の生徒会長と副会長に選ばれたときには、得意でたまらなかった。
しかし昭子と孝が、列車で一時間ほどかかる町場の高校に進学すると、テンゴという立ち位置は必然的かつ強制的に終了し、幸子は中学生になった。もう子どもではないという自意識と、庇護を失う寄る辺なさを行ったり来たりしながら、幸子は、遠くなった孝に幼い想いを寄せるようになっていた。姉を好いている孝を思慕することで、無意識にテンゴの立場を守りたかったのかもしれないし、あるいは姉への憧れとそれと同じくらいの劣等感が、十三歳の初めての恋心をいっそうかきたてたのかもしれなかった。昭子と孝は、公然の、お似合いのカップルで、幸子の横恋慕など入る余地もないというのに。
三月とはいえ、雪国の春はまだ遠い。家々の軒先は、痩せてきたつららをなおも垂らし、雪解け水を方々から集めた川は、長い冬を抱えたまま西へ西へと流れていた。
紙雛を大事そうに抱えて、村の若い娘たちが集まってくる。前の晩に、祈りを込めて折った紙雛だ。何枚かある千代紙の中から、幸子が橙に朱と紺であしらわれた牡丹柄を選ぶと、「さっちゃん、大人っぽいの選んだなぁ。去年は赤と黄色のチューリップだったのに」と、感心したように昭子がいった。最近、昭子は、妹の気持ちを知ってか知らずか幸子をテンゴと呼ばないようになった。
昭子の紙雛といえば、毎年、桃の花模様と決まっている。「姉ちゃん、またそれ?」と、幸子が聞けば、「桃の節句だもの」と、いつも同じ答えが返ってきた。
千代紙や草木染めの和紙などでできた紙雛たちは、みな白い小さな顔に島田風の髷をのせ、小さな餅を包んだ小さな荷物を、めいめいが背負っている。
「流すよぉ」
誰かの合図で、娘たちは雛人形を藁の舟に乗せ、川へ送り出す。藁の束を結わえた簡素な舟もまた、娘たちの手作りだ。
紙雛を乗せた舟が、いっせいに川に放され、ゆっくりと川面に滑り出た。
「あわしまさんまで、流れて届け~」
娘たちが口々に叫んだ。ぶつかったり離れたりしながら流れていく紙雛の舟を、少女たちは祈るように見つめている。
いくらもしないうちに、昭子の舟が、くるりくるりと回り始めた。幸子は口から心臓が飛び出しそうになる。藁がゆるゆるほどけ、昭子の紙雛が、川面に落ちた桃の花のようにぷかりと浮かんだ。
前の夜、幸子はひとり、茶箪笥に置かれた紙雛を見ていた。隣には、不器用に編まれた藁の舟も、ふたつ並んでいる。
「早く流れた方が両想いになれるんだって」明美の言葉を思い出し、胸の奥がきゅっと縮む。幸子は、昭子の舟を手に取り、結わえてあった藁を少しゆるめた。ただ、ほんのちょっとだけ遅くなればいい気味だと思っただけなのだ。姉ちゃんはいつも得をしているのだから、と。それがまさか、こんなことになるなんて。ばらばらに広がって流れていく昭子の舟の残骸を見ながら、爪が食い込むほど掌をきつく握りしめ、おそるおそる昭子を見た。
意外なことに、昭子は身体を二つ折りにして笑っている。舟をつくるのが苦手、こんなこと前にもあったのだと昭子はいい、「舟などいらん、自力でいけよ~ あわしまさんまで泳いでいけ~ がんばれ~」と、紙雛に手を振りながら叫んでいる。その横顔は、本当は何もかもお見通しなんだといっているようにも見え、幸子は心底、姉ちゃんにはかなわないと思ったのだ。
と、その時だった。一体の紙雛を乗せた笹舟が、するすると川面を流れていった。藁舟たちを追い越し、圧倒的な速さで流れていった。明美の舟だった。明美は「先手必勝!」と、誇らしげに親指を立てた。
恋をかけた紙雛流しは、それが最初で最後となった。翌年は高校合格を願って流したし、紙雛流しそのものが、それから何年もしないうちに行われなくなってもいた。
その後、昭子は東京に、孝は県内の大学にそれぞれ進学した。孝と明美が付き合っているという噂が流れたのはその頃だ。昭子は大学を卒業すると地元に戻り、高校の教師になり、一度も結婚することなく定年まで勤めあげた。今もすこぶる元気で、ボランティアや海外旅行に飛び回っている。
昭子の紙雛はあの日、案外本当にあわしまさんまで自力で泳いでいったのかもしれないと思い、幸子はふふふと笑った。そして、鍋焼きうどんを食卓に並べると、顔の上に新聞を広げたまま、うたた寝をしている夫の孝に声をかけた。