菊地 悦子(きくちえつこ)
【その4】
「誰か人よんでくっから、コウコはここで待ってろな」
おらはそういって、村に飛んで戻った。
「誰か、誰か、コウコが池で怪我した。誰か、早くきてくんつぇ!」
力いっぱい叫んでも、おらの声は幼子にしか届かない。
ばあちゃんにおぶさり親指を吸っていた赤ん坊が、突然火のついたように泣きだした。
「なじょした。いきなりなじょしただ。よおしよし、よおしよし」
ばあちゃんは、赤ん坊のお尻をトントン叩き、ねんねんころりを歌いだした。
その時だった。
「おい」と声がする。驚いて振り向くとカマモトが立っている。カマモトは、おらを真っすぐに見て、もう一度「おい」といった。
「おい、コウコがどうした?」
カマモトは間違いなくそういった。
おらの後ろからカマモトがやってくるのを見ると、コウコは口をあんぐり開けたまま、身動きもしない。そのまま固まってしまいそうで、少し心配になるくらいだ。もっとも、ついさっきのおらもコウコと同じ顔をしていたにちがいない。
「なんで? なんで?」
やっと口がきけるようになると、コウコはかすれた声でいった。おらになのか、カマモトになのか、多分両方に聞いているのだろう。
カマモトは消毒液で足の傷をで洗うと、手際よく包帯を巻いていく。
「えっと、どういうこと?」
コウコは、今度ははっきりカマモトに向かっていった。
「何が?」
「だって、あの、なんで、えっと、見えてんの?」
「僕、ずっと見てたよ。コウコがいつもこの子と一緒にいるの」
「ひゃー」といったのは、おらだった。ずっと見ていたというカマモトに、まったく気づかなかったのだから。それに、カマモトは、おらがまるで小さいこどものように「この子」と呼んだ。おらにとって、それはとてもとてもとても奇妙な気分だった。
コウコの怪我以来、コウコとおらが一緒にいると、カマモトがときどきやってくる。おらが見える者同志の連帯だとカマモトはいう。
なんで今まで、見えないふりをしていたのだとコウコがなじると、「他の人には見えないものが見えるなんていうと嫌われるじゃないか」と、カマモトはつぶやいた。そのときのカマモトはとても寂しそうだったので、コウコもおらも何もいえなかった。
「だって、コウコだってそうだろ。誰にもいわないじゃないか」
おらといるせいで、コウコはときどき変に見える。落ち着きはないし、ひとりごとも多いから、先生からは怒られる。周りからは、わがままで、その上変わったやつだと思われていた。それでも、おらのことを誰かに話したりはしなかった。そのわけなんて、今まで聞いたこともなかったが、「おらの空想かもしんにと、だんだんそんな気がして」というからびっくりしてしまった。
「おらだけが見えるなんて変だべ? 誰かに話したって、また嘘ばっかこいでっていわれるだけだべ。本当にいただなぁ。よがったぁ」
コウコは、よほどうれしいのか、おらを両手で抱きしめる真似をした。それにしても、カマモトがいなければ、おらはあやうく想像上のいきものか何かにされるところだったのだ。
「君って何なの?」
おらをじっと見ていたカマモトがいった。
おらって何だなんて、おらは考えたこともない。おらはおらだ。ただ、おらの仲間は何人くらいいるのかと聞かれたときには面食らった。
「コウコとは友だちだべ? なぁ、コウコ」
そういうと、カマモトはかぶりを振った。そうじゃなくて、おらみたいなのが他にもいるのかという意味だという。おらみたいなの、おらは見たことがない。
大イチョウのてっぺんから村を眺めながら、カマモトの言葉を思い出していた。
「おらって何って、なんだべなぁ」
棚田が小ぬか雨にけぶり、行儀よく植えられた苗が、ふるふる震えている。今年も順調に育つはずだ。今年の田植えには、コウコの強引な誘いに根負けしたカマモトも手伝いに出た。泥田のぬかるみに足をとられ、何度も尻もちをついて、泥んこまみれになったカマモトに、大きな子も小さな子もみんな大喜びをしたのだ。カマモトがほんとに仲間になったような気がしたからだ。
「おーい、いっかよ?」
大イチョウの木の下にコウコの姿があった。黄色いビニール傘を背中にずらし、上を向いておらを探している。雨が当たるせいで目をしばしばさせていた。
「学校の図書館に行くべ。カマモトがなんか調べてんだって」
カマモトの前には、本が何冊か積んであった。おらには何て書いてあるのかわからないが、民話や伝説の本と妖怪辞典らしい。
「はじめは、君はキジムナーの仲間なんじゃないかと思ったんだ。キジムナーってのは沖縄の妖怪というか、精霊かな。ガジュマルという木に住んでる。君もいつも大イチョウの木にいるよね」
おらとコウコは、キジムナーの絵を見るなり叫んだ。
「ひとっっっつも似てねぇべした!」
赤いぼさぼさの髪の毛を草で束ね、裸で腰にも草を巻いているキジムナーってやつは、どう見たっておらじゃない。
「キジムナーのひとりが、何かの事情で沖縄からこっちにきてさ、寒いから着物を着るようになったかもしれないって、ちょっと思ったんだけど」
即座に否定されたのがカマモトは少し気に入らない。
「だけど、ここにキジムナーの好物は魚って書いてある。おめは、魚なんて食わねもんな」
コウコが助け船を出した。
「食わね、食わね。魚なんて食わねよ。おらはなにも食わねもの」
キジムナーにされては大変なので、おらは必死で首をふる。
「じゃあ、これを見て」
カマモトが次に見せた挿絵には、おかっぱ頭の小さい女の子が描かれていた。これは確かにおらに似ている。おらとおんなじような赤い着物も着ている。
「これは座敷わらし。見た目はこれが一番近いね。だけど座敷わらしって、普通は古い家の奥のほうに住んでる妖怪なんだ。君は大イチョウのてっぺんにいるんだから、座敷じゃなくてイチョウわらしだ」
そういってカマモトがクスクス笑うので、コウコもおらもカマモトが冗談をいってるのだとやっとわかった。
見回りの先生が、早く帰れよと促す。いつの間にか雨はあがっていたようだ。下校時間はとっくに過ぎたが、夏至が近い六月の夕はまだまだ日が高い。雨上がりの大地が匂い立っていた。